第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
大蔵館
菅谷村の歴史散歩 その1
大澤喜一
まえがき
本稿は私達郷土の偉大なる先人達が残した足跡を山野に尋ね、歴史的考古学的探求を主眼として、祖先が逞しく生き継いてきた、有形無形の文化財を調査して、更に次代の人々に伝えることは、私達共同の責任でなければならないと考え菅谷村の歴史散歩と題して諸賢の協力と御指導を仰ぎ逐次菅谷村の歴史と文化財について回を重ねていきたい所存であります。
何分にも浅学の身分なれば誤りあるは必定と存じますので何卒御理解ある御叱正御鞭撻を賜わりますよう御願い申し上げます。大蔵の館(たて)
武蔵国比企郡大蔵の館(たて)は別名大蔵堀(ほり)の館(やかた)とも称し、東国源氏の一拠点として重要なる位置を占め、勇武絶倫所謂関東武士の典型を発揮して上武相の地を縦にした。大蔵源氏の棟梁帯刀先生源義賢の居城址である。
『菅谷村報道』169号 1966年(昭和41)9月15日
館址は槻川と都幾川が合流する所の台地上、御所ヶ谷戸の地に位置し、東面は太平記で名高い笛吹峠、正平三年(1348)武蔵合戦古戦場に通ずる鎌倉街道、往事の上野信濃越後本道に面する要衝(ようしょう)の地である。
本館址については、新編武蔵風土記稿大蔵村の頁に昔帯刀先生義賢が武州大蔵の館と聞こえしは当所にてとあり。
又古城蹟村の西方にあり方一町許、構の内に稲荷社あり……カラ堀及び塘(とう)の蹟残れり、此より西方に小名堀ノ内と伝あり、昔は此辺までも構の内にて帯刀先生義賢の館跡なりと伝えている。館址は東西170メートル、南北215メートルを算し、東西南の三面に土塁、湟の遺構が存している。
土塁の高さ2.4メートル湟巾4メートルにして入口は東面するものと考えられる。本館址は土塁、湟の一部が破壊されるも、平安京末期における武家館の代表的な存在として、その資料性は高く評価されている。
義賢は源氏の統領として東国に地盤を確立した。清和源氏鎮守府将軍陸奥守義家の家督、六条判官源為義の次男(母は六条大夫重役の女)として生まれている。
早くより近衛天皇の東宮時代に仕えて、帯刀長となり帯刀先生義賢と称した帯刀は春宮坊の舎人監の役人で、先生はその長官を意味するもので、皇太子の侍従武官長である。
保延六年(ほうえん)(1140)に至り源備(みなもとのそのう)と宮道惟則(みやじのこれのり)の争いに関係して帯刀長をやめさせられている。その後東国に下り上野国(群馬県)多胡(たこ)郡多胡の庄に館を構えて以来、上野国武蔵国における多くの武士達が義賢に従い、源氏勢力の中心となっていた。
此の頃既に別館鎌形の館は構えられていたらしく、久安元年(きゅうあん)(1145)に至り、義賢の夫人藤原氏〔周防守(すおうのかみ)藤原宗季(むねすえ)の女(むすめ)〕と嫡子仲家が京より下りて、鎌形館に来住し、翌二年81146)には女子が産まれている。後の親鸞上人の母吉光御前である。
仁平元年(にんぺい、にんぴょう)(1115)義賢は、武蔵国比企郡大蔵郷の豪族、大蔵九郎大夫経長(武蔵守村岡五郎良文の後裔にして野与党の頼意の弟経長が大蔵郷に住して、大蔵九郎大夫と称す)の娘を娶り、大蔵屋敷(経長の館)の南御所ヶ谷戸の地に館を構えて、上野国多胡の館と共に大蔵の館を根城として東国源氏の一拠点とした。義賢の居ンは御所谷(やつ)と呼ばれ、大蔵様と尊称されていることからも、上武相の地における武士達の信望あつく、律儀で忠実温厚な武将であったろうと想像される。
此の年に義賢の夫人と仲家及び女子は、鎌形の館より京に帰る。
仲家は後に源三位頼政に保護されて、六条蔵人仲家と称されたが、木曽義仲の旗挙の先立つこと三カ月あまり前、治承四年(1180)五月二十五日の宇治戦いに敗れて、翌二十六日に嫡子蔵人太郎仲光と共に討死にしている。従って仲家、義仲の兄弟は、顔を合わせたこともなく、もっとも近い肉親の父や兄弟の顔も知らずに世を去らなければならなかったとは、思えば薄倖な義仲であり、仲家であったといえよう。
大蔵館址の中には、稲荷社西方に日枝神社が存して、都幾川の対岸には源氏の氏神として崇敬を受けた鎌形神社がある。
当社は延暦十二年(793)坂上田村麿が筑紫の宇佐宮を勧請(かんじょう)と伝える古社で、八幡太郎義家、木曽左馬守義仲、右大将頼朝、尼御台所等の信仰厚く神田地(みとしろ)の寄進ありと社伝にあれば住古は過分の大社なりしことが知られる。
境内の御平洗(みたらし)の筧(かけい)は、久寿元年(1154)誕生の義賢の次男駒王丸、後の旭将軍木曽義仲産湯の清水と伝えている。
大正十五年(1926)二月十九日埼玉県指定の史蹟となった義仲産湯の清水地につき、鎌形八幡宮縁起は、七ヶ所の水を把て産湯に進られしとてあたり近き此面彼面に木曽殿清水、君清水、天井清水、照井清水、塩沢清水此外二ヶ所の名水八幡の社地にありと。
又新編武蔵風土記稿鎌形村の項に、清水南の方にあり竹藪に間より湧水する小流なり木曽殿清水と呼べり……又此辺を木曽殿屋敷と呼べり此辺統て六カ所の清水ありと。
木曽殿屋敷とあるのは、鎌形館を意味するもので付近には木曽殿坂、海道馬場、馬洗、木曽園橋(木曽殿橋)などの地名が存している。社宝として伝える銅製の革蔓〔懸仏(かけぼとけ)〕は、弥陀の坐像を鋳出し、安元二丙申天(1176)八月元吉清水冠者源義高にある義高は義仲の嫡子で十一歳のとき質子(ちし)として鎌倉の頼朝の許え送られて、頼朝の長女大姫と結婚させるという形で人質になっていたが義仲討死の折に、頼朝が極秘のうちに義高殺害を命じたことを大姫より知らされた義高は、信濃国(長野県)から連れてきていた同年の海野小太郎幸氏を身代わりにして、鎌倉を脱出して大蔵へ向う途中入間川原において、頼朝の追手堀ノ藤治親家のために元暦元年(げんりゃく)(1184)四月二十六日に誅殺されている(埼玉県入間川に存する八幡宮は義高の霊廟である)。当時五、六歳位であったと思われる大姫は、許嫁としての義高をこよなく慕っていたのであろう。八幡宮の社伝に此時大姫君愁傷の余永く漿水を断て日夜紅涙に沈み、文治三年(1187)に義高の菩提を弔うべく比企郡の岩殿観音へ参詣し当社八幡宮へも社参ありとある。
久寿二年(1155)八月十六日義賢は、鎌倉の甥、源太義平(義賢の兄義朝の嫡子)の襲撃により、河越二郎大夫重隆(畠山重忠の父、重能の叔父)と防戦するも利あらず遂に大蔵の館において若冠十五歳の義平に討取られているがその原因は詳でない。