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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

木曽義仲

木曽義仲とその伝承

 大蔵の戦いで敗死した義賢の子に駒王丸というのがいた。後の木曽義仲であるが、この義仲が、この地(嵐山町)のどこで生れたかについては、はっきりしない。
 ある者は、大蔵の館であるとか、鎌形の班渓寺付近であるとか、また、多胡の庄(現群馬県吉井町*1)であろうという。(『吾妻鏡』などから考察すれば、多胡庄が妥当であろう。)
 班渓寺そのものは、当時まだ創建されていなかったであろう。
 また、班渓寺の地続きに、木曽殿という伝承の地があるが、どうして木曽殿と言われたかについても、わからない。
 或る人は、義仲が生まれた処だといい、ある人は、ここに義仲が住んでいたのだといい、いずれも後世、英雄を思慕する作りごとの伝承であろうが、住民の感情は、そう簡単に処理するわけにはいかないだろう。
 『吾妻鏡』の治承四年(1180)九月七日の項に、久寿二年(1155)八月、大倉の館にて源義賢が討たれた時、義仲三才にて、乳母の夫、中原兼遠が抱いて信濃国木曽にのがれて養育したとある(長野県には日義村があって、義仲に関する伝承の遺蹟が多い)。(大倉の倉は『吾妻鏡』による。)
 また、班渓寺にもどるが、この寺の墓地には、古い寄せ集めの五輪塔があって、これを義仲の妻班渓尼(山吹姫)、または、義仲の母小枝御前の墓であるというが、決定すべきものではない。
 五輪塔そのものは、室町時代以後の供養塔であるが、山吹姫や小枝御前のために供養をしたのかどうかについては、はっきりしない。
 なお、班渓寺に現存する山吹姫の位牌「威徳院殿班渓妙虎大姉」なるものは、江戸時代中後期に、心ある人により、山吹姫を追憶し、供養のために作られたものであり、戒名の形式からいって、更に位牌の作り方からして、江戸時代のものであることは論をまたない。
 また、鎌形には、台地の突端に各所に湧水がある。(これは東京都の国分寺市から小金井市にかけて、台地の突端に湧水があって、はけというのと同じである。)
 この湧水が、鎌形には七か所あって、古来より鎌形の七清水と呼び、その一つが鎌形八幡神社の清水である。
 これを「木曽義仲の産湯の清水」と呼んでいる。
 この産湯の清水と称するものが、かつて県指定史跡であったが、戦後指定を解除された。
 町では町民の民情と要望に答え、町指定にすることにしたが、しかし、信憑性に欠け伝説的なので、「伝」をつけることにし、「伝木曽義仲産湯の清水」とした。
 その清水の段上に「木曽義仲産湯の清水」と、緑泥変岩に刻まれた碑が建てられているが、これは江戸時代末期に、修験桜井坊の簾藤盈恭(えいきょう)なるものが、建立したものであると伝えられ、産湯の清水というのは、多分これよりはじまったと考えられる。
 碑に限らず、後世に残るものについては、慎重になすべきであろう。
 なお、「ふるさと歩道」に「木曽殿屋敷跡」の標識を建てることについては、町の文化財委員会では賛成しなかったが、観光的な意味を含め、「ふるさと歩道」の道筋に、県観光課と嵐山町観光係では、案内板を建立することにしたので、敢て「伝」をつけることを要望して、建てることに不本意ながら「伝木曽殿館跡」とすることにさせた。
 今後、こうしたものを建立する時は、慎重に検討し、各方面の関係者と充分に連絡や意見を徴してから碑や標識は建てるべきであることを書き添えて強調しておく。

『嵐山町史』1983年(昭和58)9月発行 221頁〜223頁

*1:現・群馬県高崎市。

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