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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

鬼鎮神社

鬼神宮(鬼鎮神社)を巡る帰属争い

放光寺と広野村の争い 1824年(文政7)

 1824年(文政7)年8月、水房村の天台宗放光寺(智信)は法善寺応賢を代理人として広野村四給村々の名主源七・重兵衛・弥藤治・半蔵を相手取り、寺社奉行所へ鬼神宮をめぐる不法出入を訴え出た。
 訴状によれば、放光寺は川嶋の鬼神宮を始め太郎丸の粟巣大明神・観音堂、勝田の天神、中尾の雷神、菅谷の山王権現等々の法楽・神事・祭祀を執行してきた。また延享(1744〜1747)・安永(1772〜1780)年中には東叡山寛永寺に上書記録されている。即ち放光寺は鬼神宮の別当(神宮寺を支配する検校に次ぐ僧籍)を自認していた。然るに広野村村民は、鬼神宮には別当は無く、村持ちであると触れ回り、新規に錠前を取り付け、1823年(文政6)には無断で社地内の立ち木を伐木し新規に神楽殿(二間×三間×一丈五尺)を造営する等、不法勝手気侭の行為があり、このままに捨て置いては外の放光寺支配の社地へも影響が出て、寺務を続けることができないと判断、是非不法を行わず以前の通り支配の出来るようにと裁定を願い出た。
 これに対し評定所は広野村名主らに対9月13日返答書(弁明書)を差し出し、評定所へ出頭対決するように命じた。そこで広野村四給村々の名主組頭は連署して長文の返答書を提出した。
 それに依れば、宝暦年中(1751〜1763)領主嶋田藤十郎へ「名細帳(村明細帳)」を差し出し「鬼神宮村持之書上有之」として記録されており、又その頃川嶋住居の者で上屋(うわや)[霊屋(みたまや)]を再建、1841年(文政4)関東地誌御改御廻村の節にも「川嶋氏子村持」と報告されている。祭祀祈願の折は放光寺に鳥目二百文を出して頼んだことはあるが、「別当」等と云うことではない。三ヵ年前から参詣人が増加してきたので、放光寺は別当にしてくれと再三申し出はあったが承知していない。賽銭・宮鍵は当方組頭にて保管、賽銭は宮の修復に使い、不足の分は氏子が割合出金してきた。「宮鍵を出せ」との水房村の名主・組頭・百姓代共の不法強要もあったが断固として断った。すると今度は本寺東叡山より検僧(葬式の時髪剃をする僧、異状があれば葬儀を差し止めることが出来た)をたのんで、放光寺別当の件を無理強いに及んだこともあった。放光寺は別当となって私欲を貪り、困窮の私共を見掠め、難題不法を申しかけていると弁明、「是迄之通り出来村内平和に相治り候様」と返答書を差し出した。
 これを受けて、評定所は「放光寺の鬼神宮別当の由申立は全く心得違に付相手方へ相詫以来鬼神宮は氏子広野村村持と相心得申べし」と議定通知した。これによって、放光寺は別当との申し分立たざるを恐れ入り相手方に詫び、鬼神宮は広野村氏子村持ちであることを承知し、鍵は先規の通り川嶋氏子が保管、社木入用の時は給々地頭へ届け出て伐木することで、済口証文に両者署名捺印、一件は落着したのである。

泉学院と広野村の争い 1851年(嘉永4)

 ところが、それから27年後の1851年(嘉永4)8月廣野村総鎮守八宮明神別当の泉学院栄長は廣野村内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代を相手取り鬼神宮に関する不法出入を寺社奉行所へ訴え出た。
 訴状によれば、鬼神宮は八宮明神の末社であり、これまで武運長久・氏子安穏の祈願を行ってきた。1640年(寛永17)には川嶋の者達の頼みにより飛地川嶋の秣野に仮産宮として遷座したが、引続き法楽祈願も行い護摩札・札守を差し出してきた。元禄年中(1688〜1703)、栄長の親栄茂は若年病身の上、鬼神宮は凡そ二十町余も遠隔の地にあり諸事不便だったのだろう、当座限りということで宮鍵を川嶋の組頭に預けた。しかし社務は引き続き執り行ってきたのであるが、1851年(嘉永4)年5月14日、馬之丞・政右衛門・民蔵等がやって来て、近年参詣人が増加したので取り計らい方について万端議定したい旨申し出た。しかし泉学院はその必要なしと返答して帰した。翌15日は鬼神宮の縁日だったので勤行に出向いたところ、社前に馬之丞ら三人居並び勤行を制止され、その上百姓代の音三郎・馬次郎も駈け付け、社内への立ち入りも拒否された。これは泉学院をのけ者にして神事祈祷を勝手に取り計らい、布施物までも私欲にまかせて取り上げようとする企み、捨て置いては神事を俗家にまかせ、僧俗の差別を失い、職道の掟も崩れ神慮にも叶わず、院務相続方にも拘わる大事、どうか相手のもの呼び出し、不法を止め先規の通り拙院にて鬼神宮守護祈願執行出来ます様にと願い出た。
 これに対して同年9月川嶋の氏子から評定所へ返答書が差し出された。それに依れば、第一に泉学院が八宮明神別当であり、鬼神宮はその末社というのは全く跡形もない偽りであり、両者は往古以来村持ちである。それが証拠には八宮明神の鍵は廣野村名主千代吉が、又鬼神宮の鍵は川嶋の組頭ども預り、賽銭は年々帳面に記入して組頭あずかり、宮修復等の足し合いにしてきた。その他1808年(文化5)に泉学院は八宮明神別当であると理不尽な申し出を阿部主計頭寺社奉行へ訴願したが、訴訟人の申立相立たず、氏子共に詫び、以来鬼神宮は廣野村字川嶋氏子村持ちと心得ること、また社木は入用の節村役人・地頭所へ届けて伐木すること、鍵は組頭預かり置くこと、祈祷は泉学院・放光寺何れかに依頼することで決着した。次いで1824年(文政7)放光寺からの不法出入訴訟の折も、鬼神宮は氏子村持ということで済口証文を差し出している。また1844年(弘化元)鬼神宮再建の砌には組頭預の賽銭を差し出し、不足分は氏子一同にて出銭したにも拘らず、泉学院は一銭たりとも差し出すことはなかった等、綿々と書き綴られていた。
 この返答書は評定所の理解するところとなり、泉学院の訴えは退けられ、1808年(文化5)の裁定どうり、八宮明神・鬼神宮共に「村持」ということで、1852年(嘉永5)、泉学院栄長、内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代連署して済口証文が評定所に差し出され決着したのである。
 要するに、鬼神宮の帰属を巡って再三紛争があったが、何れの時も「鬼神宮は川嶋氏子村持」ということで決着し、恐らく明治に引き継がれていったのであろう。

参考文献・資料:
田幡丈家文書4、永嶋正彦家文書26・27・29

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