第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
比企西国札所
観音(かんのん)(観世音菩薩〈かんぜおんぼさつ〉)は三十三の姿に変身して人びとを救うとされ、その教えが元となって各地に観音霊場(れいじょう)、札所ができました。町内の路傍や墓地にある「奉納百番供養塔(ほうのうひゃくばんくようとう)」と刻(きざ)まれた石碑は、百か所の観音様をおまつりしたお寺を巡(めぐ)って無事に帰って来られたことを感謝して造られたものです。お寺を巡って参拝することを「巡拝(じゅんぱい)」ということから、これらの石塔を巡拝塔といいます。巡拝は巡礼(じゅんれい)や遍路(へんろ)とも呼ばれています。
百番とは、西国(さいごく)三十三か所(近畿地方二府五県)・坂東(ばんどう)三十三か所(関東地方一尨Z県)・秩父(ちちぶ)三十四か所(埼玉県秩父郡市)の全部あわせて百か所の札所(ふだしょ)のことです。観音信仰は江戸時代中頃(1700年代)から盛んになりました。町内にある巡拝塔も寛政(かんせい)年間(1789年〜1801年)以降のものなので、このころから経済的に余裕のある農民層に巡拝が広まっていったと考えられます。また、月山(がっさん)・湯殿山(ゆどのさん)・羽黒山(はぐろさん)の出羽三山(でわさんざん)や四国などの地名が刻まれているものもあり、各地の霊場を巡り歩いたこともわかります。
西国や坂東の霊場巡りは日にちがかかり、道中(どうちゅう)の轟o費の負担も大変でした。そこで各地に、西国・坂東の札所をまねた霊場がつくられ、観音巡礼をより身近なものにしました。
比企西国札所は、享保8年(きょうほう)(1723)に穏誉浄安(おんよじょうあん)により開かれたといわれ、東松山市九か所、吉見町一か所、川島町十二か所、滑川町四か所、嵐山町六か所、小川町一か所の比企郡内あわせて三十三か所のお寺やお堂を巡る全行程約60kmのコースです。
嵐山町内では、第二十五番御堂山(みどうやま)が最初の札所になります。御堂山は大字太郎丸(たろうまる)にある嵐山病院の東、滑川町境にある小高い山で、南には市野川(いちのかわ)が流れています。西側の石段を登ると中腹に小さなお堂があります。お堂はかなり荒れており、本尊の聖(しょう)観音像は盗まれてありませんが、観音はどんな状況の中にいる人にも救いの手を差しのべてくれる仏様ですので、お詣りする人があり、信仰は現在も続いているようです。
札所を巡拝して唱(とな)える御詠歌(ごえいか)はお経を唱えるのと同じ功徳(くどく)があるとされています。御堂山の御詠歌は次のとおりです。「法(のり)」は仏の教え、仏法、「たつき」は事をなすための拠り所、手段の意味です。
篠原(しのはら)を分(わ)けつつゆけば御堂山(みどうやま)
法(のり)をたつきの道(みち)しるべにて
博物誌だより122(嵐山町広報2004年9月)から作成