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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第3節:昭和(町制施行後)

嵐山町

町制施行を宣言

 関根町長は四月十五日午前七時有線放送を通じて次のように宣言した。
 本日より菅谷村を嵐山町として町制を施行いたします。

『嵐山町報道』173号 1967年(昭和42)5月15日

嵐山町発足 4月15日

文化と産業の町を建設せむ

町長 関根茂章  

式辞

 春まさにたけなわ、百花繚乱の本日、茲(ここ)に埼玉県知事殿、県会議長殿、県会議員殿を始め多数来賓の御参列を得て、嵐山町町制施行の記念式典を挙行出来ますことはまことに感激にたえず、此の上ない慶びとするところでございます。
 町村合併促進法に基づき菅谷七郷両村が、大同合併をいたしましてから丁度十二周年、更にさかのぼって明治二十二年の町村制が施行されましてから七十八年の星霜(せいそう)を経て茲に待望の嵐山町の誕生をみるにいたった次第でございます。
この間、多数の先輩達が、激変するきびしい時代の中に、その精魂をかたむけて地方自治の進展と住民福祉の向上に献身的努力をかさねられたのでございます。
これら幾先輩の●骨のご努力の集積がこの度の町制の実現を可能にしたのでありまして、あらためて粛然として襟を正し頭を垂れる次第でございます。
 吾が嵐山町が、風光明媚な自然を備え、由緒ある歴史の数々を有しておりますことは、常に私共の誇りとしてきたところでございます。また首都圏の近郊ベルトに属し、大東京衛星都市の一環として将来の飛躍的発展が予想されるところでございます。
 広域行政の視野に立脚して、近郊市町村と相提携しつゝも、この町の有する自然資源並びに文化資源を高度に開発し、国家大衆のために役立たせると共に、この地域開発を通じて住民自らの福祉と繁栄を築かねばならぬと考えておる次第でございます。
  清新にして逞しき産業の町
  古くして新しき文化の町
  水清く緑こき環境の町
  老若相和す平和の町
 このような田園都市を築きたいと誓っておる次第でございます。何卒今後一層の御指導と御鞭撻を賜りますようひたすらお願い申し上げる次第でございます。
 おわりに御列席各位の限りない御発展を祈念し式辞といたします。
 昭和四十二年四月十八日

(●=金へんに楼の右)

『嵐山町報道』173号 1967年(昭和42)5月15日

祝賀の喜びにわく 四月十八日

 嵐山町は四月十五日に新発足した。この朝、関根町長は有線放送を通じて嵐山町制施行の宣言を行うと共に、新しいビジョンを述べ町民の協力を求めた。また記念式典は四月十八日、菅中体育館に町内外の来賓二百名を集めて盛大に挙行された。安藤助役の開式のことば、国歌斉唱、市川武市町制施行準備委員会副会長の経過報告、関根町長の式辞、山岸宗朋町制施行準備委員会長の挨拶があり、続いて感謝状が故山下鉄治氏、青木義夫氏、青木高氏、市川武市氏に贈られた。来賓の祝辞としては埼玉県知事(地方課長代読)石沢県議会議長、山口衆議院議員、小久保県議会議院、染谷町村長会長、青木義夫前村長などがあり、宮本副議長の閉式のことばで式は修了した。祝宴は菅中技術科教室で開かれ、午後一時半から桂米丸らの演芸が体育館で行はれた。一方警察音楽隊による市中パレード、菅小、七小、鎌小合同による鼓笛隊の街頭行進、などがあり、また、午前、午後の二回にわたり町民有志の三機編隊による空からの祝賀飛行が行はれ花束が投下された。商店街は十六、十七、一八の三日間花火を打上げるとともに大売出しが行はれた。この日、各戸には日の丸の旗が掲げられ町制施行を心から喜んでいた。
 なお町では各家庭に記念の手拭、大王松二本を配布し、桜の苗木一千本を記念植樹した。

『嵐山町報道』173号 1967年(昭和42)5月15日
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