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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

菅谷村

昭和三〇年の合併

菅谷村

 昭和三〇年(1955)四月一五日菅谷村及七郷村を新設合併して新たに菅谷村を設置した。
 福田村、宮前村、菅谷村及び七郷村の四村は菅谷行政部会を構成し、行政運営上相互に密接な連繋を保ってきたことから、同二九年(1954)一月一八日同行政部会の会合が福田村役場に開催され町村合併問題について懇談したのを始めとし、翌二月二日宮前中学校において四村による町村合併研究会が県地方課長臨席のもとに開催され、町村合併促進法の説明及び質疑応答が行われた。
 同月二六日に公表された県町村合併促進審議会の合併試案においても同じく四村合併が計画されていた。
 四月に入り四ヶ村合併に協議を進めるため、関係村長、議会議員代表等を以って構成する菅谷行政部会町村合併連絡協議会を結成することとなった。また各関係町村内においては住民に対し合併の趣旨の普及徹底を図るとともに住民の意向を聴取するため各諸村別に懇談会を開催した。
 こうして菅谷村においては五月中旬各諸村の意向を取りまとめたところ合併については賛成の意見が多数を占め、合併の方法については四村合併を理想とするが、これが実現困難な場合は三村又は二村による合併も可とするとの意向であった。
 七郷村においても四村合併を希望して四村の合併を推進するべく関係村に積極的に呼びかけを行った。
 しかして福田村及び宮前村においては地理的経済的条件から四村合併案の他の福田及び宮前による二村合併案、さらに松山町との合併案もあり、住民の希望もいろいろであったが、五月二四日福田及び宮前の二村間に会談がもたれ、合併するに際しては両村は同一歩調で進むことを申し合わせた。
 六月一八日菅谷行政部会連絡協議会が開催された席上、菅谷及び七郷両村は四村合併を希望するとの態度を表明したが、福田及び宮前両村はこの二村による提携の線は決定しているが、その後の方針については未定なので、結論を得ることなく散会した。
 七月十七日に至り、福田及び宮前両村より二村合併を決定したので四村合併には応じられない旨通知があり、菅谷行政部会の四村合併は不調に終った。
 こうして七郷村においては、当初より四村合併実現を積極的に推進して来たのであるが、その実現が不可能となった後は菅谷村との二村合併の線しかなくなった。しかし菅谷及び七郷両村とも地形的に南北に細長く、これが合併した場合さらに細長い形態となるので、不合理であるとして菅谷村との二村合併については消極的で、むしろ八和田村及び竹沢村とともに小川町と合併した方が良いとする意見も出た。このため同村においては慎重に検討を重ねることとなったが、結局、地形的には不合理であるが、風俗、習慣を同じく、日常生活面においても密接な関係を有する菅谷村と合併すべきであるとの意向が高まり、同年一一月二七日菅谷村に対し協議を行うよう要請し、翌一二月六日両村の議会議員代表が菅谷村役場に参集し相互に要望事項を提示して意見を交換した。
 翌三〇年(1955)一月二〇日七郷村より菅谷村に対し将来滑川村(昭和二九・一一・三・福田村及び宮前村の合併により設置)又は小川町と合併する前提として菅谷村と合併したい旨申入れがなされた。これに対し菅谷村においては、滑川村との合併は当初の目標であるから異存はないが、小川町合併は考慮の余地なしとの回答をし、その後における両村の協議は一進一退の状況であったが、三月下旬に至り急速に協議は成立して、遂に三月二七日両村議会において二村合併の議決をみた。
 新村名については、後日決定することとして、とりあえず菅谷村として発足することになった。
 なお、新村の役場位置は将来適当な地に新庁舎を建設するとの協定のもとに暫定的に菅谷村大字菅谷七番地と定められ、旧菅谷村役場庁舎を使用することになった。
 合併当初の世帯数一、五八三戸、人口九、三九三人、旧菅谷村長高崎達蔵氏が村長職務代理者に就任、参与に旧七郷村長青木義夫氏、旧菅谷村助役小林博治氏が就任された。
 昭和三〇年(1955)四月一五日の合併初村議会で、議長に旧七郷村議会議長の馬場覚嗣氏が選出、副議長に杉田寅造氏が選ばれた。
 村議会議員は、菅谷地区二二名、七郷地区一二名で構成、合併関係の議案四〇件可決し、そのあと、盛大な合併記念式典が挙行された。
 同年五月十四日、初の村長選挙が実施され、高崎達蔵氏が無投票で初代村長に当選された。
 同年一〇月九日、合併後初めての村議会議員選挙が執行、二二名の新議員が誕生し、第二代議長に栗原侃一氏が、副議長に山下欽治氏が満場一致で承認された。
〔以下略〕

『嵐山町議会史』1987年3月
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