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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

大正時代

旧菅谷村・七郷村

※七郷村(ななさとむら)は1955年(昭和30)4月、菅谷村(すがやむら)と合併、現在は埼玉県比企郡嵐山町(らんざんまち)。

大正7年(1918)事務報告

町村制第百十三第二項に依り大正七年(1918)一月一日より仝年十二月三十一日至る一ヶ年間、本村役場事務の概要左【下】の如し

一、一般事務
 本年中に受理したる文書件数は二千参百四十二件、口頭申請に係るもの六百三十四件、発送文書件数二千百二十八件にして前年に比し五百七十二件を増加せり。而も事務敏捷を主とし多くは即時処理して停滞せさるやう勤めたり。村治の方針としては内質の改善を主とし、人智上達、産業の発展を計り、小学校、村農会は産業組合、軍人分会、青年団、地主会等と協力して実績を挙けたることに勤めたり

二、村会
 本年中村会を開くこと七回。会議は最も平穏にして提出案件、歳入出予算を始めとし、決算の認定等議事の進行上支障なく、満場一致通過決定せり

三、納税状況
 大正五年(1916)より納税者表彰を行ひたる結果納税状況一変し、令書を発するや否や続々納入して指定期日には已に七分通りの納入者を見るに至れり

四、学務状況
 義務教育に対しては本年度中一人の不就学者及猶予者なく全部就学の好況にして、出席歩合も亦良好にして、郡内の上位にあり。是一つは学齢児童保護会より貧窮児童に学用品を給与すると督励の結果に依るものとす。実業補修学校に対しても教授其の他に改良を加ひ益々隆盛に進めつゝあり。学務に関し最も観るへきものは五月二十八日村会に校舎増築案を提出し、満場一致之れを可決し、尓来知事の認可、校舎の設計工事の受渡を了し起工を急きつゝあり

五、衛生状況
 訓令の趣旨に基づき春秋両度の清潔を励行すると共に、第一期、二期種痘を励行し、猶ほ痘瘡予防として二千有余の村民に種痘を施したり。而して十月初旬悪性感冒の流行するや小学校児童の休校を計り、一般村民に対しては再三予防上の注意を発して是れが撲滅を計りたり

六、勧業状況
 農事改良を目的として第一撰種、即ち塩水撰、冷水温湯浸法を奨励し、短冊苗代の督励、薄蒔薄植の方針を執らしめ、一面村農会をして水稲採種場、水稲実施指導場及大小麦採種場を設けしめて、一は改良耕培の模範たらしめ、一は品種改良の資料たらしむ。其の他多収穫共進会、小作米品評会を開かしめて米麦の収穫多からしめ及ひ産米の改良を計れり。一面農業智識の発達を計らんがため特種農事講習会の開催に当り、極力勧誘して多数の入会者を得せしめらり

七、兵事状況
 時務の進展に伴へ兵事々務も亦複雑になりて、壮丁(トラホーム)花柳病の検診より、徴兵検査、簡閲点呼、動員事務予習に村長及兵事主任の立会を要すること頻繁を極むるに至れり。本年度徴兵検査人員三十三人にして甲種合格者九名何れも入営す。外に海軍志願兵一名入団せり

八、社寺戸口状況
 社寺に付ては指定村社二社にして祈念祭、例祭、新嘗祭の三大祭を厳格に執行し、神威を崇高ならしむると共に氏子一般崇敬の念を高むることに勤め、尚ほ五字神社に対する国有林払下げの手続を円満に進行せしめたり。戸数は五百三十八戸にして人口三千六百五十七人、出生百五十四人にして、死亡者九十五人、差引五十九人の増加をなせり

九、土木状況
 乙線即ち第三線の道路砂利敷工事を完成し、特に六万坂工事には予算に不足を生したるため、大字杉山より寄附金を募集して仝工事の完成を告けたり。尚大字杉山私設道路工事は再三延期申請をなして大正八年(1919)三月三十一日までに竣功せしむることゝなれり

嵐山町行政史料(1919年(大正8)2月26日、七郷村会へ提出)
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