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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

明治時代

旧菅谷村・七郷村

川島呼称回復請願の理由書

明治22年(1889)、菅谷村が誕生した際、広野村川島は、広野村から分離し菅谷村大字志賀に編入され、「志賀・元広野」と呼ばれました。
この文書は、川島の住民を人民惣代人として旧来の名称川島を復活させ、大字志賀から独立して新たに大字川島を設置することを郡役所に願い出たものです。

御諮問ニ付御答
比企郡元広野村飛地川嶋
右川嶋之儀者過般町村制御施行之折ニ字志賀ヘ御編入ニ相成候処名称之儀ニ付人民不便不利益之廉々之アルニ付本年八月二十一日付■本郡役所ヲ経由シ本県ヘ旧称存立之儀懇願書奉呈仕候処本年八月二十九日付(庶第八二八号)ヲ以本郡役所ヨリ同郡菅谷村役場ヲ経由之上廉々之御諮問ニ付古書類及取調候儀左ニ

第一條 比企郡元広野村飛地川嶋之儀者往古川嶋村ト称シテ一村独立タル村名之起レル元因ハ  市ノ川ノ流水西北東之三面ヲ湾流シ加ルニ村ノ西南隅元菅谷村境ヨリ湧水滾々池ヲナシ溜井トナリ漸々西北ニ流下シ菅谷志賀ノ元村界辺ノ田ヲ灌漑ス為ニ自然一圓ニ水田ヲナシ(按スルニ往古ハ水ヲ引キ水ヲヤルノ便ニトモシト見ユ)市之川流ニ合ス又東者地形南高北低ニシテ同郡宮前村大字月輪トノ境辺各所ヨリ水湧キ為ニ村之東者水源之辺ヨリ水田連続シテ市之川流ニ達ス如此正南一隅ヲ残スノミニシテ三面者終古水色不絶中ニ■然トシテ一■起リ是ヲ堅メハ殆湖中ニ嶋嶼ノ在ルカ如シ故ニ称シテ川嶋村ト云(以上口碑傳ヘ求ル)

第二條 比企郡元広野村飛地往古川嶋村ト称セシ村名消滅セシ所謂者元文四年ニ至リテ消滅シタル者ト存ス(口碑ノ傳ニヨル)抑往古ヲ勘合スルニ天保年中迄者本郡松山領ニシテ川嶋村者一村独立タリシ事ハ古書類(本願書ノ内第八号ノ写)等ニ明寮[瞭]ナリ故ニ広野村ト別村ナルコト云モ更ナリ慶安ノ頃領主換リテ徳川氏之家臣高木築後守広正ニ當川嶋村広野村及近隣之村々マテ知行スル処トナリ然ルニ川嶋村之儀者其間之名主鍛冶師ヲ業トナス仍之右地頭ヨリ御用鍛冶ヲ仰セ付ラル両役相勤メ難キニ付(本願書之内第六号之古書ノ写ニ【ヨ】ル)止ムヲ得ス仝知行ノ故ヲ以広野村ノ名主ヘ當村ノ名主兼務相頼ミ置キ其後元禄十一年寅五月ニ至リテ遠江国ヘ任知セラル之ニ因テ當村ハ更ナリ近村迄悉ク上知トナリ御代官高谷太兵衛氏ノ支配所トナリ其後数度沿革之末仝暦十六年川嶋広野ニ二村ヲ木下求馬氏嶌田藤十郎氏内藤主膳氏大久保築後守等ノ諸家ヘ賜リ四給トモ名主役ハ広野村ニ於テ兼勤シ川嶋村ニハ組頭役ヲ置ク(本願書第五号古書ノ写ニヨル按スルニ四給ノ百姓■■スルノ故ナラン■旧絵図面ノ色分ニ詳カナリ)事ニ相成リ始メテ合村ノ形況ヲ成スニ至リ而元文四年ニ至リテハ自然村名ハ消滅ニ帰シタルモ飛地川嶋ノ名称者未タ■顕スルハ是往古ヨリ一村独立タルノ地形ニシテ大字名ヲ川嶋ノ旧称ヲ置カサレハ百時不便ハ勿論将来支障ヲ生スヘク旧慣ノ存スル所ナリ

第三條 新村菅谷村ヘ編入ノ今日大字川嶋トナレハ便宜ノ件■
 壱項 過般町村制御施行ニ際シ元広野ノ飛地川嶋之儀者同村大字志賀ヘ組込ニ相成候得共第一公私用及電信飛脚等ハ是一時一分間ヲ争フノ用ニ共ス可キ者ナルヲ茲ニ川嶋某ヲ尋ルニ當リ先ツ菅谷村ヲ訪レ大字志賀ヲ尋ネ而始メテ川嶋之某タルヲ知リテ其用ヲ辨スルカ如シ譬ヒハ縣廰及郡役所ヨリ菅谷村大字志賀ノ内川嶋ニ関スル事ノ件等達セラルヽニ當リテモ大字志賀ヲ訪タトキハ里程壱里余西ニ行キ又壱里以上東ニ帰リ其用ヲ達スルニ至ルトキハ往返殆ド里程貳里以上ヲ損ス故其御用モ亦一時間除ヲ遅滞ス如此ナルトキハ至急ヲ用スル場合ニ於テハ大字川嶋ヲ存スル事実ニ便利ト存候
 第貳項 郵便配達者ハ能ク地理ヲ可存モ毎戸知リ得ベキ者ニアラズ況川嶋ノ方ハ本郡松山郵便局ノ配達ニシテ元志賀村ノ儀者本郡小川町郵便局ノ配達ナリ又配達人ノ換ル事モアル者ナレハ真ニ大字川嶋ヲ存スル事便利ト存候
 第三項 元広野村飛地川嶋ヲ大字志賀ヘ組入ルトキハ共有財産等モ随テ大字志賀一圓併セサル事得サル者ト考ヒラレ候得共是等之如キハ土地之旧慣モアレハ甲ニ宜シク談スレハ乙ニ計ハス乙ノ便ニ依ルトキハ甲ニソフクノ利ニシテ元ヨリ広野村ノ飛地ト云フモ往古川嶋村之習慣ヲ以テ一團体ヲナシ居ル者ナレハ大字川嶋ト■フル方便宜ト存候
 第四項 元志賀村ト飛地川嶋トノ人民居住之距離接近之処ニテ拾五丁除(此間ハ別テ水田間道又ハ山路ニシテ至テ通行不便ナリ)亦最遠之処ニテハ(飛地川嶋之東者宮前村大字月輪及羽尾ニシテ元志賀村ノ西ハ八和田村大字中爪及小川町大字下里ノ境ノ所ヲ云フ)壱里三拾町以上モ有之将来諸事大字限リ人民集会等ニ付テモ元志賀村人民ヨリ川嶋ノ方ヘ来ルモ困難又川嶋之人民モ元志賀村ノ方ヘ行モ是亦困難ニ候寧ロ大字川嶋ト旧称ヲ存置候方大ニ便宜ト存候
 第五項 先般元広野村ノ飛地川嶋人民一同ニテ消防器具等ヘ一切川嶋組ト記載之上去ル明治二十一年九月二十六日付ヲ以テ松山警察署小川分署経由シ本県出願候処同年十月十八日付ヲ以(警指第一七八号)本県之御認可ニ相成リ居候ニ付大字川嶋ト相成候得共右消防器具之目印ト大字名ト的當致シ候依テ大字川嶋ト■タル方便宜ト存候
 第六項 川嶋之儀者大字志賀江編入相成候得共元ヨリ川嶋者鬼鎮神社ヲ以テ遠ク海内ニ知ラル■所之署名ト謂ハサルヲ得ス加アルニ村名之起ル処亦広野村ノ飛地ト云モ独立一村之体ヲナシ万事往古ヨリノ慣セモアル処ナレハ署名ト旧慣トヲ保存シ往古川嶋村ト■シタル証跡(本願書ノ内第七号八号其他ノ古書ニヨル)モアルヲ以テ大字川嶋ト存置候方大ニ便宜ト存候

第四條 元禄年間ノ頃及前後之水帳及御割付等之古書類及元広野村旧役相勤候各家等ヲ相尋ネ候得共旧役人数々更迭シ古書類等給乱之趣キニ付止ムヲ得ス仝郡七郷村役場ニ付キ廉々証明ヲ得ル事別紙写之通リニ御座候

第五條 比企郡元広野村之飛地川嶋ト■スベキ内部之字名及筆数取調并現今絵図面其他本郡七郷村役場之証明書認可之写相添候事

右之條々御諮問ニ付取調答申上候也
                 比企郡菅谷村大字志賀
                         人民惣代人
明治二十二年(1889)十月十日            小川喜六
                 仝 仝 大字仝
                          仝
                              権田縫太郎
                 仝 仝 大字仝
                          仝
                              森田浦蔵
埼玉県比企横見郡長鈴木庸行殿

「川島呼称回復請願の理由書」(埼玉県立文書館蔵)
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