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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

明治時代

町村制への動き

   初期の村の合併

 町村分合への動きとして、政府から布達された最初の法令は、明治五年(一八七二)の太政官布告第一一九号である。これは従来町村の中には一村が幾つかの組に分離され、それぞれ別個の行政体であったので、まずそうした区別を廃して一村の行政をまとめて取扱うこととしたもので、厳密の意味では、町村合併の布告とはいえないが、町村単位の行政を徐々にまとめていこうとするものであった。
 しかし実質的な町村合併の動きとしては、翌六年(一八七三)六月に町内分合及び町村の名称変更等に関する手続きを示した、大蔵省達第九九号、ついで同年十二月大蔵省第一八六号がそれである。政府の意図は、戸口*1や反別*2の少ない村は、「毎年無用の労費を掛、区入費並に村費を相嵩(かさ)む」ので、これ等の面から当時存在した弱小町村や、住家の少ない新田村を合併させ、当時の地方財政の中心となっていた、民費や村費の軽減を図ったものである。

*1:戸口(ここう)…戸数と人口。
*2:反別(たんべつ)…田畑の面積。

   鎌形村の合併

 鎌形村と同村植木山は各々もと独立の一村であったが、田、畑、宅地とも入会し、且つ風俗・習慣等も共通して従来から一村同様の状態であった。その上この両村は、いずれも戸数三〇戸*1に満ない小村であるため、無用の経費がかさんで冗費が増し住民はその負担に難渋困惑した。そこで両村の重立った者一同協議の結果、両村を合併することに意見が一致し、明治七年(一八七四)五月熊谷県令河瀬秀治にその旨願出た。
 よって県は、その状況を詳細に調査したところ、願出の通り不都合の点が認められなかったので、明治七年五月十七日県令代理兼参事津田要から内務省大久保利通に、両村合併の儀を伺出た。ところが「両村合併之儀ハ明治六年大蔵省第九九号布達ニ照準人口絵図面取調当可伺出事」として却下されてしまった。
 このため県は、更に絵図面等を調査及び調製のうえ、翌六月十四日再伺いしたところ、ようやくその理由が認められて、同月二十八日「書面申立之通可取計事」として異議なく許可され、ここに鎌形村が新発足した。

*1:次に示す合併許可史料と戸数は異なる。

『嵐山町史』1983年(昭和58)9月

鎌形村内郷と同村植木山の合併許可史料

「庶第百二十五号」
   村合併之儀ニ付伺
本県管下
武蔵国秩父郡
薄村(すすきむら)
一、反別四百九拾七町五反八畝三歩
一、戸数五百四軒
一、人口弐千三百十五人
同国同郡
白井差(しらいさし)
一、反別壱町六反三畝拾五歩
一、戸数三軒
一、人口拾六人
    反別四百九拾九町弐反壱畝拾八歩
  合 戸数五百七軒
    人口弐千三百三拾壱人
右【上】合併         薄村
〔中略〕
同国比企郡
鎌形村内郷(かまがたむらうちごう)
一、反別五拾七町壱反八畝拾八歩
一、戸数七拾六軒
一、人口四百三人
同国同郡
同村植木山(うえきやま)
一、反別六拾町五反壱畝弐拾九歩
一、戸数六拾四軒
一、人口三百拾人
    反別百拾七町七反拾七歩
  合 戸数百四拾軒
    人口七百拾三人
右【上】合併         鎌形村
〔中略〕
右者小村或者耕地人家共入会、従前一村同様之村々ニ付、御布告ニ基便宜ヲ商量合併願出取調候処、不都合筋無之候間聞届可然候哉、麁絵図面(そえずめん)相添、此段奉伺候也
          熊谷県令河瀬秀治代理
 明治七年六月十四日 熊谷県権参事 津田要 印
  内務卿 大久保利通殿
(指令・朱書)
 書面申立之通可取計事
  明治七年六月廿八日 内務卿 大久保利通 印

『埼玉県史料叢書7(下) 入間・熊谷県史料四』埼玉県教育委員会, 2007年(平成19)3月
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