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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

江戸時代

村の法度 五人組帳

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と社会の第二に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。

 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか。幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。

 1836年(天保7)吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は山本大膳版と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(六百石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。

 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 〔中略〕 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは十二項目で、比較的少ないものであった。

 一項目は前書のとりであるから第二項から逐条概略見ておこう。

一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。

一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。

一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。

一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所の帳簿に記載すべし。

一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。

一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。一夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。

一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。

一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。

一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。

一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。

一、婚礼の節大勢にて申し合わせ途中にて妨害したり、船着場で船頭穢多(えた)非人祝儀をねだったりすることあれば訴出るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。

 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。

 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。

 そして又、1866年(慶応2)年「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々三十一カ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は、

一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし

一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし

一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし

一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし

一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること

一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること

一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。

 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。

 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。

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