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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

江戸時代

戊辰戦争(ぼしんせんそう)

 慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令によって新政府が成立したが、幕府側と政治体制をめぐって対立が続いていた。翌年1月3日、ついに薩摩と長州の討幕派が鳥羽・伏見で幕府軍と衝突した。戊辰戦争の始まりである。幕府軍が敗れ、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は江戸にもどった。戦いは5月の上野での彰義隊との戦い、8月の会津戦争、明治2年5月の函館五稜郭の戦いまで続いた。

新政府の東征軍が忍城に

 鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍は、江戸をめざして有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を大総督にした東征軍を編成した。東海・東山・北陸の三道に鎮撫総督(ちんぶそうとく)【戊辰戦争時の地方平定の長官】を任命して江戸をめざした。中山道を進んだのは東山道鎮撫総督軍で、慶応4年3月6日には神流川を渡って本庄宿に入り、9日には熊谷宿に到着した。東征軍は江戸城攻略をめざしていたが、その時点で忍藩は新政府側か幕府側か藩論を決めかねていた。東征軍が翌10日を期して忍城(おしじょう)攻撃を計画したため、忍藩は勤王に転じ、東征軍の支配下に入った。

東征軍が村々に石高提出を要請

 忍城を支配した東征軍は軍の維持のために県北の村々に人馬の提供を要請してきた。当時の吉田村名主藤野彦右衛門の慶応4年(1868)5月の控文書「御総督様通行ニ付忍行田町エ御伝馬勤村々 新助郷村々総代面附帳写」(藤野治彦家文書)には、助郷【宿駅常備の人馬では不足する場合に応援の人馬を提供する郷村】を要請された村々とその石高が記されている。その村々の範囲は、幡羅郡の17か村、埼玉郡の32か村、大里郡の28か村、比企郡の25か村、男衾郡の8か村に及んでいる。東征軍は、長い間幕府の支配下にいた村々に対して官軍という錦の旗の下に協力を命じ、助郷役を課すための基礎として各村々の石高を出させたのである。
 嵐山町域では、その「面附帳写」に吉田村690石、勝田村193石6斗、古里村159石5斗、越畑村468石3斗、平沢村220石、平沢村220石と6つの村の石高が記されている。

越畑村の歎願書

 このとき越畑村の名主伊右衛門と組頭半左衛門連名の、「乍恐以書付ヲ御歎願奉申上候」(新井悟家文書)という歎願書の下書きのような文書が残っている。あて先は番所の役人になっている。何回か書き直したらしく同じような文書が三通残っている。次のような趣旨のことが記されている。

 今般、御総督様のために忍城へ御伝馬役を勤めるようにとの通達を拝見し、今日は人足を連れて罷り出るべきですが、村では小前人【貧しい百姓】の者が困窮してごたごたが起り、人足が参ることが出来ません。幾重にもご勘弁くださるようお願い申し上げます。なお私の村は難渋至極の状態で、隣村と合わせて高五百石余ですが、御伝馬役は休役になっています。私の村の御伝馬人足は半高勤めになるよう、格別のご慈悲を持ってお聞き入れ下さるよう願い上げます。

 文書の日付は、「慶応四辰年閏四月日」となっている。これは先の『面附帳写』の伝馬役要請にかかわる文書である。
 当時、東征軍が編成されて江戸をめざして進軍してくると、関東各地の代官が任地を捨てて立ち去るという権力の空白の時期に、各地で小作農や貧農が中心になって一揆を起したりして、世直し状況が起こっていた。この歎願書は、越畑村でも困窮した農民を抱えて伝馬役に応じられず、半高勤めを願っていたことを示している。なお、この歎願書のなかの越畑村の「隣村」というのは伊勢根村(石高74石6斗 現小川町)と思われる。

総督軍の先鋒隊赤報隊のこと

 当時、農民の苦境に応えようとする動きが東征軍側にも起っていた。東山道鎮撫総督府は、成立後間もなく東山道先鋒総督府と名称が変わるが、その総督府の先鋒隊となっていた赤報隊(せきほうたい)は、総督軍の先を進んで各地の状況探索と勤王への参加を広める任務を持っていた。赤報隊は3隊で編成された。第1隊を率いたのは相楽総三(さがらそうぞう)で、彼は西郷隆盛の指令を受けて赤報隊の結成に参加していた。彼は関東攻略の策として旧幕府領の年貢半減を建白し、年貢半減令を隊の旗印としていた。赤報隊は慶応4年の1月に先鋒隊として出発したが、1月末には京都の新政府から帰還命令が出され第2、第3の赤報隊は引き返したが、相楽の率いる第1赤報隊だけは命令を拒んで東山道を進軍し、長野県の下諏訪まで進んで先鋒隊としての活動を始めると、地域によっては年貢半減、さらには世直しを求める動きも広がった。東山道総督府は、年貢半減を嫌い、赤報隊が世直し状況と結びつくのを恐れて、この赤報隊を官軍の統制を乱す「偽官軍」として、相楽総三らを捕らえ3月3日に処刑した。越畑村の名主伊右衛門と組頭半左衛門が、総督軍要請の伝馬役に対して半高願いを出したのは、その翌月4月のことであった。当時慶応4年の1月から4月にかけて県北の村々では、一揆や打ちこわしなどが続発して不穏な状況になっていた。

東海道先鋒総督府からの兵糧米金提出の要請

 他方「慶応四年四月 東海道先鋒総督府会計方より兵糧米金申渡書」(『小川町の歴史 資料編6』)によると、比企地区31か村は、東海道先鋒総督府会計方から、村高100石につき白米3俵と金3両を品川官軍賄所に持参するように命じられている。その兵糧米金算出の基礎になる村高調査の記録「東海道先鋒総督府会計方へ組合村概要書上」(同上書)が残されている。その中に、嵐山町域では菅谷村、勝田村、広野村、太郎丸村、古里村、杉山村、吉田村、越畑村の村高と村方三役の名前が記されている。こうしてみると東山道進軍の総督府からは伝馬役を東海道進軍の総督府からは兵糧米金が村々に課されてきていたことが分かる。

江戸城の無血開城と新しい体制づくりへ

 慶応4年(1868)3月15日に予定されていた官軍の江戸城総攻撃は、西郷隆盛と勝海舟の会談で無血開城が実現した。将軍慶喜は水戸で謹慎することになるが、これを不満とした戦争が各地で続き、明治2年の函館五稜郭の戦いをもって戊辰戦争は終わりを告げた。
 戊辰戦争を戦い抜いた官軍は、幕府軍を壊滅させ、困窮して世直し状況を示す農民層の動きを押さえ込み、やがて治安維持を期待する豪農層の支配する村々を新政府の下に協力させていった。嵐山地域の村々も新政府の傘下に入っていった。そして幕藩体制時代に代わる新しい体制づくりが次の課題になっていくのである。同年9月8日、慶応は明治と改元と改元された。

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