第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第7節:結び
千手堂村明細帳
町誌編纂に与えられた期限が来た。仕事は終ったわけではない。然し私たちはこの辺で一応仕事のしめくくりをしなければならない。そのために千手堂村の「村差出明細帳下書」を読んでみることにする。これは次のように「天保十四卯年(1843)壬(うるう)九月日」の日付のある記録で、関根関太郎氏の所蔵にかかるものである。
(表紙)
天保十四年卯年壬九月日
村差出明細帳下書
武州比企郡 千手堂村
(村高 耕地反別)
一高百拾四石弐升四合
此反別弐拾九町壱畝弐歩
五町四反四畝七歩 田方
内 弐拾三町五反六畝廿五歩 畑方
此内八畝八歩 元田畑ニ成入
(土質農作物)
一田方用水掛水定水無之天水場ニ御座候
但 土地黒真土ニ御座候 山谷ニ而悪場ニ御座候
一畑方野土多有之真土場少々ニ而ねばまじり 地あさニ御座候 大麦少し蒔小麦がちに作付仕候
一種の儀は但壱反歩へ大麦八升位 小麦は壱反歩五升位種入仕候
一秋作之義は 大小豆竝粟稗多作付仕 外いも竝大根少々宛作申候
但 山谷の村方故 猪鹿多分出喰あらし候ニ付 困窮の村方ニ御座候
(農作時期)
一田方苗代之儀は 毎年八十八夜少し後ニ種蒔仕 半夏頃迄ニ植付仕候
一早稲多太苗ニ植付 おく稲少々作り申候
一畑方之義は大麦十月中より 十一月せつ迄に蒔入仕小麦ハ九月せつより十月せつまて蒔込仕候
(質入値段)
一田畑質入直段之義
上田 但弐両より壱両三分
中田 壱両壱分位迄ニ御座候
一下田下々田 谷合木蔭の場故 質入ニ相手無之程の悪場ニ御座候
一畑方質入直段の儀ハ
上畑 壱反ニ付 金壱両三分より壱両弐分位迄御座候
中畑 金壱両弐分より壱両位迄御座候
下畑 壱反に付 金壱両より三分位迄御座候
(肥料)
一畑方肥の義は かり草其の外野山ニ而落葉などをとり養肥に仕候
一田方肥の義 右同断 片毛作り御座候
(用水)
一用水溜井 八ヶ所
内 壱ヶ所ハ用水ニ相成候得共外 七ヶ所は水の保悪候故用水ニ相成不申候
然候共 年々手入仕候
(戸数住民)
一当村百姓家数 三拾三軒
人数百七拾九人 但当卯年改
外ニ僧弐人 馬四疋、牛ハ無御座候
外ニ潰百姓弐拾弐軒
一隣郷平沢村より入作百姓三軒御座候
一道化者山伏竝穢多之□無御座候
一寺院弐ヶ寺 内 禅宗 千手院
日蓮宗 光照寺
(自普請)
一当村山付ニ而南さがの村故大雨の節は悪水押出し候ニ付小堀拾ヶ所程有之此上橋年々掛替仕候
一郷境ニ槻川と申川有之 但歩行渡右川橋年々十月当村より竹木差出掛申候
(施設)
一御高札
此掛札 四枚
切支丹札 壱枚
鉄砲 〃
内 徒党強訴 〃
火付之事 〃
一千手観音堂 別当 千手院
但三間四面
此御除地
反別合弐反四畝弐拾弐歩
内 三畝弐拾歩 田方
弐反壱畝弐歩 畑方
一三十番神 壱ヶ所 別当 光照寺
此御除地
反別合弐反三畝四分 畑方
一鎮守社 三ヶ所
内 壱ヶ所(伊勢太神宮) 千手院持
弐ヶ所(山王宮春日社)村氏子持
(年貢)
一御年貢永方御上納之義ハ
夏御成金 六月
秋御成金 九月
御皆済金 十二月十日限
右【上】は三度永方金之儀先年より四ヶ村ニ而最合格番ニ御上納仕来申候
一田方御年貢 定石代金納ニ御上納仕来リ申候
但御相場御張紙直段ニ而金三両賃ニ加江上納仕候
(村境)
一隣郷村境
南ハ 鎌形村
西ハ 遠山村
東ハ 菅谷村
北ハ 平沢村
(主要都市への里程)
一江戸日本橋江 道法 拾七里
一川越御城下江 〃 七里
一近郷市場江 小川村へ 壱り
松山町へ 弐り
熊谷へ 四り
(農間渡世)
一当村百姓男女作間稼之義は男之方は莚皆川などをり出し女ハ木綿布を織出申候
右は当村明細帳書面の通少茂相達無御座候
以上
天保十四卯年壬九月
武州比企郡 千手堂村
名主 茂兵衛
与頭 源左衛門
同 長左衛門
百姓代 庄左衞門
御郡代所私たちがこれまで続けて来た調査は、まこにたどたどしいものであるが、とも角も、その結果に現われた結論とでもいうべきものを、この明細帳の上にどのように検証することができるだろうか。例えば村の成立については、検地を中心としたその時期の問題、村の生活については、領主の支配機構と村の共同体制の問題、村民の生産面生活面については、相互扶助の共同生活の問題等、これがこの検地帳の上にどのように現われているか。この明細帳は、たまたま入手し得たもので、特定の村のものではない。だから本文で述べたような結論が、この明細帳の中に矛盾なく読みとることが出来るとすれば、私たちの結論は、私たちの村々のいづれにも共通して正しいものであると考えてもよいであろう。そういうわけでこの明細帳を読んで結びとしようとするのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
先ず江戸時代の村勢を代表するものは「村高」であり、この「村高」がきめられた時村が成立した。そして検地によってこの「村高」がきまったのであるから、村の成立は検地の時期であるというのが、私たちの見方であった。