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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽将軍沢村

 村名の起源については別に述べた。この地名が群馬県世良田の長楽寺文書に出ていることは「沿革」「風土記稿」の両方で紹介している。この文書は二つあり、将軍沢郷の土地を長楽寺の燈明料として寄進するという内容のもので、一通は正安元年(1299)、沙弥静真より、一通は元徳二年(1330)源満義から出されたものである。寄進の土地は前者は「田三段」とあり後者は、「二子塚、入道跡、在家一宇、并田三反、毎年所当八貫文之事」と書いてある。毎年八貫文の収入が長楽寺に寄進されたのである。
 静真というのは世良田次郎教氏のことで、三河次郎ともいった人である。幕末に幕府の奥儒者、成島司直の校正した。「改正三河後風土記」によると、徳川氏の先祖、徳川四郎義季は、新田義重の四男で源頼朝に従って功があった。義季の長男が世良田孫四郎頼氏で三河守となった。この頼氏の二男が教氏である。義満はその孫で弥次郎満義といい、この人は義貞の配下となって功を立てた。然し義貞の歿後は一族が世良田の片隅にかくれて世をはばかって暮した。これによって将軍沢郷が世良田氏の領邑であったことは明らかである。然しどういうわけでこの土地を世良田氏が領していたかは不明である。
 吾妻鑑に「木曾義仲が父義賢の事績を尋ねて信濃国を出て上野国に入った。これは上野の多古庄が義賢の遺迹だからである。」とあるから、義賢の領地は多古にあったわけである。そして義賢が大蔵に在住したことも事実のようである。
 世良田氏と将軍沢、多古の義賢と大蔵という風にならべて、これをつなぐものは何であったろうかと考えると、矢張これは当時の交通路だったのではなかったろうかということになる。前述のように武蔵の国府、府中から上信地方に往来するには、入間川から比企、男衾の山野を経由したと考えられるから、この交通路の一つが将軍沢、大蔵を通っていたと考へてよい。大蔵村境から将軍沢を通り笛吹峠の須江村の境までの里程約十六町を、明治のはじめ頃は八王子往還といっていた。
 「沿革」に従ってこの交通路をトレースすれば、北の方志賀村から「東京街道―西方中爪村界ヨリ東方菅谷村界ニ達ス。村内延長二十一町四間二尺」群馬県に通ずる一等県道であるといい、菅谷村ではこの東京街道は「北ノ方志賀村界ヨリ東ノ方上唐子界ニ至リ九町三間、北ノ方志賀村界ヨリ二十四間二尺吹上坂ノ坂路アリ」とのべている。これが大蔵村では、八王子道となって「北ノ方菅谷村ヨリ来リ都幾川ヲワタリ川原ヲ過ギ本村標杭ヨリ南ノ方将軍沢界ニ至ル、八町五十七間三尺」と記し、この道は都幾川の南岸から村の中央を南に向い、直進して秩父道と会同し、少し進んで、三筋橋で秩父道と分れ尚南進する。縁切橋を渡り不逢ヶ原の坂路をのぼって将軍沢村の不添ヶ森に入ると註釈を加えている。将軍沢村では前述のように八王寺道十六町と記し「北方大蔵村界ヨリ南ニ向カイ五町二十五間ハ平坦ニシテ、左ニ折レ五十五間ニ高城橋アリ、ソレヨリ平地一丁来ツテ笛吹峠ノ坂路ニ至ル」と説明している。重要路線であることがわかる。(志賀、菅谷、大蔵の「横町」はこの八王寺道に対する横町で、秩父往還を指している。大蔵の横町は新藤義治氏の家号となっている。)
 笛吹峠の辺は鎌倉街道の跡ともいわれている。国府や、鎌倉から、上州、信州に通ずる路線の一つが通っていたことを示す。この路線に沿って大小いくつかの聚落が発達したであろう。いやそのような聚落を綴ってこの道路が通っていたといってよい。これ等の聚落の中、尤も着目されるのは、川の渡し場とか、谷の入口、峠というような要害の地であったと思う。武士の時代だったからである。守って利あり、攻めて不利なる地形の場所は、争って彼等の手中に収められたであろう。要所々々は争奪の的ともなったであろうと思われる。将軍沢や大蔵はこのような要所として注意され、源氏の諸族や世良田氏の勢力下におかれたのではないだろうか。
 将軍沢村には、他の村々のように農耕生活や民間信仰から生じた地名が多い上に、何か中世の武士の生活に関係していたらしいと思われる地名がしばしば見られる。高城はその一つである。「沿革」に「高城山は高さ四十余丈、中腹より上は岩石多く芝草が生え、それより下は樹木が茂っている。東は仕止山、鞍掛山が連り、その下を流れる都幾川を目近に見ることが出来る。西の方は上大ヶ谷を発した恵智川が流れ、北の方は不添が森の松林を眼下に眺められる」という説明がある。武士の館などに好適の地形である。高城とか仕止山、鞍掛山などは武士の生活が直接原因となってつけられたか、あるいは武士の生活を見ていた人たちによって呼ばれるようになった名であると思われる。武士に全く無縁のものとすればこの発想は生じないはずである。
 矢の袋、栗挾(くりぱさみ)、鳴池、稲示場など今のところ不明の地名である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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