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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽志賀村

 「沿革」に昔は「四ヶ村」といったが、後に「志賀村」と改めた。然しその年代は不明である。又、元は菅谷村と一ヶ村であったが、寛文年中(1661-1672)に分村して独立したものであると書いてある。「風土記稿」もこれと一致している。そしてこの村は正保年間(1645-1648)の図面には載っていないが、元禄の図面には出ているから、寛文年中に分村したものだろうという説明を加えている。
 志賀村の名称の起りは「四ヶ村」であったというところまでは分るが、何々の「四ヶ村」であったかという点は不明である。この村にも古い地名が多い。その大部分についてはこれまでに紹介して来たが、尚特殊なものを上げると次のとおりである。
 ザラメキ、ドウドウメキ これは水の音を形容した地名で、その例は他国にもある。瀬の早い川の岸にある部落や田畑にこの名がついている。ザラメキは、ザワメキで、ザワザワと音をたてることで、どよめくという動詞が、どよめきという名詞になったのと同じ形である。ザラメキ、ドウドウメキは、はじめ、川の水音のするその一地点を指したものであろうが、やがてその名が周囲にひろがって、これを含むややひろい地域がその名で呼ばれるようになった。後代の人はザラメキの地域の中に、その名に相当する事実がないので、その意味を忘れたり、その付近に新しく人の関心をとらえるものが現われたりすると、その方に注意をひかれて、別の名前になってしまったりする。志賀村でも、ドウドウメキといっている場所は今もあるが、ザラメキは地名も場所も不明になっている。(高橋甚右衛門氏談)
 吹上(ふきあげ) 前掲水の音から起った地名に対して、これは風の吹く状態から出て来た地名である。東昌寺裏の東上線の北側の地域である。束昌寺坂を登ると菅谷村の地内で、古くは吹上げの坂上といった。吹上げの起原については、朝日新聞の埼玉版題字下の「地名を探ねて」でもいくつかの説を紹介しているが、この吹上げは風の吹き方を形容したものである。冬になると西北の季節風が志賀県道に沿って烈しくこの村を通り抜け、鼠島、蜻蛉橋の水田地帯を渡って、菅谷台地の北斜面に吹き上げる。ここを吹上とは全くうまくつけたものだと感心させられる。吹上の東は向原で、これも別に書いたように、季節風の吹きぬける場所である。志賀村の吹上げは風の吹き方から出た地名である。これと同じものが遠山に二つある。風早と横吹きである。風早は、平沢と遠山との境の高地で風早山がある。風当りの強く、風通しのよい場所であり、横吹きは大平山の西傾面で小倉からの風がここに横に吹きつけるからだという。
 我田分(がだぶん) 市の川に沿い、七郷県道の西側の地帯である。古くは滑川村加田の領分であったので、この名が生じたという説がある。然しこれはおかしい。加田はもとの中尾村の一部で、加田と我田分とは離れてその間に水房村、太郎丸村などが介在している。別の意味があると思う。「沿革」には「我田分野」の状況をのべて、地形は頗る低く平素湿地となっており、ややもすれば冠水をうける。草木はなく冠水のたびに肥土(へどろ)を置くので、村民はこの土を削りつって肥料に充あてている。といっている。村持の共有地である。我田分の名はこの地形とも結びつかない。
 押出し(おんだし) おんだしと呼んでいる。山崩れの場所らしい。そのような地形をしているという。山の先が突き出ている突端のこと押出しという場合があるそうである。
 その他地元の人も意味不明といっているものに、尾先(をさき) 清岩(せいがん) 石合(いしあい) 三角(みかど) 芝付(しばつけ) 道光田 蚊山 津金沢(つがんざわ) 船頭田(せどうた) ソヤ潟 鼠島 芝際 千部経 田通し 町屋 トウカの前がある。
 読み方まで不明のものに、潟田、所柄の二つがある。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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