第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第6節:村々の地名
▽勝田村
勝田の名は、吉田と同様、よい水田の村という意味であろう。吾妻鑑の建久四年(1193)の条に、武蔵国、勝田の地を毛呂太郎に与えたという記事があるというから、古くからの地名である。勝田、勝山、勝浦など武将には縁起のよい地名である。毛呂太郎は満足したことだろう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
柳町(やなぎまち) 勝田村の東部、滑川に沿った耕地で、上田の場所である。町は田の一区劃を意味する言葉である。これに柳がついたのは何故だろう。柳のついた地名は他村にもある。志賀村の柳原、柳町、平沢村の柳原、鎌形村の柳沢、越畑村の柳原、杉山村の柳田など大分多い。委員会の意見をきくと、柳は護岸に植えたものである。川岸の崩潰を防いだのだという。そのために柳の地名が生れたと考えてよいだろう。柳原といっても、それは昔のすがたで、今は開発されて耕地となり、その中を小川がうねうねと流れる。その護岸に柳を植える。このような風景の地名である。
猿田(さるた) 広野村下広地(耕地)の上にある山の部分で水田はない。農村では猿を山の神の使、あるいは山の神そのものとして考える習慣がある。村内の各所に庚申塚や庚申塔が残っているので、庚申講や庚申待があったことが分る。この庚申信仰も猿を神の使と考えていた。猿を猿田彦神に連想して、庚申塔を道祖神の碑と同じように扱った例もあるという。猿田の名はこのようなところから起ったのではないだろうか。庚申塔でもあったのではないか。
尺尻(しやくじり) 高山は勝田村で一番高い所である。この高山と猿田の間に狭まれて尺尻の沼がありこの附近を尺尻という。勝田村には石神があり、これは社宮司の項でのべたが尺尻も又しやぐじの転化ではないかと思う。
花見台(はなみだい) 風雅な地名である。高倉の地域にある。ところが別の場所に花見堂がある。昔は堂が残っていたという。花見でもした場所かと考え易いが、そのようなレジャーを楽んだ人は一体何者だろうか。農村には縁が薄いようである。一茶の句に「里の子や鳥も交はる花御堂」というのがある。花御堂は四月八日の灌仏会に、釈迦の誕生像を安置する小さな堂で花で屋根を飾って供養する。私たちの記憶にも新らしい行事である。里の子供達には楽しい年中行事であった。花見堂はこの花御堂であろうし、花見台にもこのお堂があったのではないだろうか。そして越畑村の「花火原」も、花見原とすれば花御堂に関連させ同じように考えられると思う。川島の花見堂はいうまでもないだろう。
金塚(かねづか) 現在塚はないが、庚申様を祀ってあったという。前述のように庚申塚を金塚、金井塚という筈はないというから、この金塚に庚申様を祀ってあるのは、かね塚の発音に引かれたためだろうと思う。
沖(おき) 沖とは田野の広く開けたところと字書にある。和田という地名があるがこれと同じ意味である。谷間の入野に比較して稍々広ところを和田といい又之を沖といった。勝田と広野の沖はこの地形に相当していると見てよい。大蔵村は平坦な場所であるが、全く当っていないということはない。
西新井(にしあらい)は西の方の新居、新開地の意味である。
高倉(たかくら) 石神に関係した地名で、石で積んだ塚などあったところから発生したのではないだろうか。「クラ」というのは山のけわしい所を意味する地方もあるし、岩のことをクラという地もあるという。然し岩倉、倉橋などという語もあって、只の岩石地ではなく、岩や石が積み重ったものをいい、それも自然に出来たものでなく、人為の石組のことであるという説がある。いはば石塚であるという。私たちも子供の頃、川の中に石倉をきづいて、魚のかくれ場を作り、魚取りをしたものである。これも正に石の塚である。高倉はそのような石の塚でもあったのではないか。石神は石を御神体とする祠である。高倉の地名を石の塚に結びつけることはそれ程唐突の考え方ではないと思う。
オタケナイ、北の内、陣場、洞分など、まだ問題の地名が沢山ある。