第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
制度法制にもとづくもの
▽三つ保田
杉山村に大町がうがへ三っ保田という地名がある。三つ保とは、三つの保の意味ではないだろうか。保というのは大化改新の時に採用した地方制度で、五家を集めて保とし、保長をおいて相検察せしめたのが起原だといわれている。然し今ここでいう保はこれとは大分性格がちがっている。保は律令制度の崩潰と共にその内容が変転し、郡郷の下に位する土地の一区画となった。即ち鎌倉時代になると、郡、郷、庄、保、或は庄園、郷、保などと数えられて家の群集する一画のことを指し、幕府からここに地頭をおいて、荘園と同じように土地の一単位となった。それで何々保と称する地名が各所に生じたのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
政府の土地開墾政策、つまり墾田の制は権門、勢家、有力社寺等の荘園を成立させる原因となったが、これ等の私墾田と伴に国の開拓事業も行なわれたので、これ等の土地は庄といわずに、郷又は保といったという。その郷や保の名称だけが残って、土地の一区画の単位となったのであるし、保の名称は太閤検地の時に廃止された筈である。制度の上では廃止されてもその慣習が後世に伝って昔通りの呼び方を続けているというのはよくあることで、別に不思議はないわけである。こう考えれば三つ保田は三保の田である。前述のように杉山村には、長おさ、四つおさ等古い土地単位の名が存在し、この三つ保田の所在する大町には、大町がうがえおさがある。三つ保もこれ等の土地単位の名称と共に伝ったものであろう。
こうなると古里村の保井と、越畑村の穂切谷が関連して来る。保井の意味は地元でも不明だといっている。そしてここには極めて良質の清水が湧出しているということである。保井の井はこの清水であろう。とすればこの地区は昔何々保といわれた場所で、その保をもって、保井というようになったと考えることは出来ないだろうか。
次に穂切谷、これも地元では不明である。他に説明がないとすれば、保切谷と考えてはどうか。開墾の土地をいくつかの保に分割区分して、各人の所属を定めた。それで保切谷になったと考えたらどうであろうか。
尚、保とは直接関係ないが、開墾に関したもので、前にも組や名の呼称が出て来たが、多分同じ系統のものと思われるものに吉田村の小在池がある。これは「コザイケ」と読む。関東では新しく開いた土地は何々新田という地名が多い。志賀新田、鎌形野銭場の新田等がある。然しこれは近年の名で、関西では新屋敷、今在家などというそうである。これは人口が稠密(ちゅうみつ)で、大規模の開墾適地がないので、せいぜい分家を出す程度の小規模のものに止った。それで家本位の地名となったのである。それで関東のような山野の豊富な土地にはこの地名は少いわけである。それでも絶対にないというわけではない。新屋敷は分家の意味で現存している。「おらが在家」という言葉もある。「コザイケ」は小在家であろう。分家の意味としてもよいし、新開の地は本村に対する、つまり在家の地区に対する小在家、子在家と考えてもよいと思う。