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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第4節:地形と地名

谷戸

 以上で、クボは、ヤツ、サハ、タニ、イリなどという地名とは別物であることが分った。無関係ではないが、同物異名ではないのである。このクボに似た地名に「ヤト」がある。これもヤツ、サハ、タニ、イリに関係深いように考えられている。果してどうか、先ず志賀村から探してみよう。
 大木ヶ谷戸、鍬ヶ谷戸、殿ヶ谷戸の三つがある。事のついでに全町について拾い出して見ると、知明(ちあけ)ヶ谷戸(平沢)、さいもじやと(遠山)、親ヶ谷戸(千手堂)、兼ヶ谷戸、辻ヶ谷戸、殿ヶ谷戸(鎌形)、御所ヶ谷戸、遠山ヶ谷戸(大蔵)、あめがいと、うはやと、大久保やと、小田やと、西のやと、前の谷戸、谷戸(吉田)、北ヶ谷戸(越畑)、道満ヶ谷戸(勝田)、広ガ谷戸(広野)、猿ヶ谷戸、城ヶ谷戸、堂ヶ谷戸(杉山)などがあって、まことに押すな押すなの盛況である。しかもこれは検地帳より取材したものに限っているのだから、この他にも「谷戸」の地名はまだまだ沢山あるものと見てよい。例えば勝田には雨ヶ谷戸、広野には飛ヶ谷戸、鹿島ヶ谷戸、宮ヶ谷戸、鎌形には、さんがいと(さぎが谷戸)などのあることが委員の調査から報告されている。
 さてこのように数多い「谷戸」とは一体どのような地形の場所だろうか。谷という文字があることから私たちは直ぐに、山合ひの谷間を連想する。「谷戸」と呼ばれる地域にはどうしても川に刻まれた狭い谷間がないと承知出来ないような気がする。然し私たちの予期に反して、どの「谷戸」もそのような谷間ではない。実は小高い丘の麓に続いた緩い傾斜の地や、洪積台地の開放された場所である。住家の前面には広い畑がある。そして偶々、後方の山間から発した細流があって、それが一段下の低湿地に流れていれば、この細流の沿岸や下の低地には水田が作られている。「谷戸」と呼ばれている場所はこのようなところが多い。だから山間の谷間には緑が薄いのである。緑が薄いというのは全く関係がないということではない。これは後で説明する。このような地形、つまり「ヤト」は又「ヤツ」ともいっている。民俗学では「ヤト」「ヤツ」は多分二つの高地の中間にあって、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこれを「ヤト」「ヤツ」と名づけて珍重したものだろうといっている。ところがこの「ヤツ」という語に「谷」という字を当てたのが私たちの誤解の出発点となったのである。
 「風土記稿」の平沢村の項に、太田道潅の嫡子資康がここに陣営を構えたと出ているが、資康は、扇ヶ谷(ヤツ)上杉の家臣である。その扇ヶ谷は鎌倉の谷七郷(ヤツシチゴウ)の一つであるが、今行って見ると、決して「タニ」という地形ではない。ところが鎌倉の「ヤツ」に谷の字を使ったので、われもわれもと自分たちの「ヤツ」にもこの谷の字を書くようになった。鎌倉は政治文化の中心地だったので、自然これを真似たのである。こうして「ヤツ」が谷になり、「ヤト」は谷戸と書いて、今、私たちが「ヤト」や「ヤツ」から「タニ」を連想するようになったのである。「ヤト」は谷でなくてもよいのである。さて私たちの地方では民俗学がいうとおり「谷戸」は生活にも生産にも最も好ましい地形の場所であった。谷戸の地名の中に殿ヶ谷戸、御所ヶ谷戸、城ヶ谷戸、堂ヶ谷戸、鹿島ヶ谷戸、宮ヶ谷戸というように、一般住民の階級より一段上にある人たち、権力者や実力者や、神仏に関係のあるものが沢山残っているのは、谷戸が第一等のすぐれた土地であった証拠と考えてよいだろう。よい土地は先ず有力者が占拠する筈だからである。鎌形では村の特色を現わすのに、「三ヶ谷戸、七清水」といっていた。三つの広い谷戸と清冽(せいれつ)な七つの清水は、村民の豊かな生活を保証する象徴であったからである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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