第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第9節:鎮守様と共同体制
鎮守神と産土神と氏神
ここでついでに「風土記稿」の記載中、吉田村には村の鎮守がなく、太郎丸村は淡洲明神社を「村の産神」とし、鎌形村では八幡社を村の鎮守と書き更に「田黒村玉川郷等の産神」と併記してあって、他の村々と大分異っている。これは一体どういうわけなのかを考えてみることにしよう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
さて鎮守のもとの意味は一定の地域や営造物を守護して貰うために新に勧請した神である。もともと村々には産土神(うぶすなかみ)があって、その地域に生れ生活する人たちの守護神とされていた。だから鎮守神と産土神とは本来は異るものであるが、私たちの村々ではその差別はなく、鎮守神はそのまま産土神でもあった。そしてその上に鎮守神は氏神の性格も兼ねていた。鎌形八幡の例でのべたとおりである。この三つの性格を兼ねた神を「チンジユサマ」という名で代表させたのである。このことをもう少し、くわしくいうと、鎮守の氏子という言葉がある。村人はその村の鎮守様の氏子であるといって、誰もうたがわない。然し氏子というのは、もとは氏神に対する言葉であって、氏神は氏という同族団の始祖である。氏子はその子孫である。氏神と氏子との間には血のつながりがあると考えられているのである。それで鎮守様の氏子という言葉には、先祖とその後裔(こうえい)という意識が潜在(せんざい)していると思うのである。尤もこの意識は鎌形八幡社のように一つの伝説の形で現われているものもあるが、他の村々にはその気配が見られない。そして鎮守を氏神様と称える例もない。然しだからといって、鎮守に氏神の性格がないとはいえないのである。そのわけは先ず鎮守をなぜ氏神といわないかというと、その理由は他に氏神があるからである。つまり私たちの家には、必ず屋敷の一隅に屋敷神が祀られてある。稲荷様、神明様など神名のきまっているものもあるが、大ていはただ「氏神様」といっているのが多い。この氏神様を「おがむ」のは=正確にいえば「まつる」のは、その家の家族だけである。戦時中千社参りが行なわれて、この屋敷神にも、武運長久の札が貼られたがこれは単なる参拝であって「まつり」ではない。氏神様への奉仕はその家の家族に限るのであり、又、お互に他の家の「氏神様」を「おがむ」ということはあり得ないのである。して見るとこの「氏神様」は、この家にとっては最も関係が深く、反面、他の家にとっては極めて疎遠(そえん)の関係にあるものといわなければならない。一軒の家には密で他の家には粗であるものといえば、その家の血縁者ということになる。血縁者で神として敬されるものといえば、これはその家の祖先である。このように屋敷神として一族の氏神様と称するものをもっているので、その他に氏神様と称するものがあっては理に合わないことになる。それで鎮守様に対しては氏神の呼称がおこらなかったのだろうと思う。こんなわけで鎮守様を氏神様とはいわなかったけれども、おまいりの気持は氏神であった。例えば今でも入学試験に出発の朝早く鎮守の神前に額いたり、青雲の志を抱いて他郷に門出する若者たちが、鎮守様に挨拶に参ったりする風習は、単に神という超人間的な神秘の力に祈る態度ではないのである。鎮守様は私たちの最も身近にあって、私たちに特別目をかけてくれる神様であるという観念に基いているものである。私たちにとって特別に親しく、心配してくれる神といえばそれは祖神である。血のつながりがあるから、それで特に私たちに味方してくれるのだと考えることは、思考の型として最も自然で素朴のものであろう。当然考えらるべき経路である。これは前にのべたとおりである。それで私たちは、鎮守様は氏神としての性格もそなえていると考える次第なのである。
次に産土神の性格について考えてみよう。産土神は生れた土地の神である。生れた土地の地元の神であり、昔からその土地に在す在来の神である。それで、生れた子供はこの神に初参りに行き、出生の挨拶を申上げる。嫁入りや聟入りの場合も同様にこの神に挨拶参りをするのである。産土神は地元の神様だと考えられていたようである。永島氏の話によると、永島さんはお母さんの里で誕生した。宮参りはその村の○○様に詣た。それでお前のウブスナ様は○○様だと聞かされた記憶があるという。これなどはその例に当っていると思う。生れた地元の神様に挨拶に行ったわけである。地元の神は当然ここに住む私たちの生活を守ってくれるものと期待されたし、又、地元の神は、その神威から見ても当然村の鎮守の地位を占むべきものであった。だからいつの間にか、鎮守、産土の区別はなくなって、「チンジユサマ」が産土神と鎮守神の性格をもつようになったものと思う。更に又大ていの人が、この「チンジユサマ」の区域の中で出生したので、鎮守神即産土神であることに何の矛盾をも感じなかったのだと思う。
さて以上で、「チンジユサマ」は、鎮守神と産土神とを兼ねそなえた性格のものであることが分った。