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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第9節:鎮守様と共同体制

鎮守様と村人

 もう少し考えよう。この鎮守と村人のつながりはどのような性格のものであったろうか。凡そ人と人とのつながりで、最も直截(ちょくさい)明瞭で、疑問の余地がなく、且つ強靱(きょうじん)なものといえば血のつながりであろう。今とちがって、昔は社会の仕組みが単純であった。そのような世の中で、先ず人と人との結びつきの根拠となるものは血のつながりである。人々は同一の血族という観念で、お互に結び合って一つのグループを形成していた。血によるつながりは人情の根本より発した最も自然の本質的なものである。この心の構造は神と人とのつながりを考える場合にも同じようにはたらいた。昔のことであるから思考の形態はごく素朴で、身辺のことがらを直ちに他に及ぼすのである。神と人とは血をもってつながっつていると考えたのである。それ故にこそ、その神が人々の生活を保証し、作物の豊饒を守ってくれると考えたのである。そこで鎮守様の氏子という観念が出て来たものと思う。氏神と氏子の関係は、もと氏族の祖神とその氏人との関係である。これは同族意識でつながっているものである。それと同じ考え方が鎮守様と村人との間に生じたのである。鎮守様は村人の祖先の神であるという考えもおこって来たのである。
 鎌形の鎮守八幡様の氏子は、左右の目が不均等である。一方が必ず細く小さいといわれている。元来人の目はよく見ると誰でもそうなっているようである。然るにこれは八幡様がある日、とうもろこし畑でその目をついて怪我(けが)をしたからであると伝えられている。八幡様の神職である斎藤氏、簾藤氏の一族は今もとうもろこしを作らない家風が残っている。八幡様の片目が氏子に伝っていると考えていたのである。八幡様と村人とは血のつながりがあると信じられたのである。だから村人は鎮守様の氏子ということになるわけなのである。
 鎮守様と村人とは、同族の意識で結ばれていたのである。祖先と子孫という関係にあったのである。そして鎮守様の祭りが行なわれた。祭りの性格は前述のとおりである。鎮守様はかくしてその氏子の範囲を村としてかためる役目を果して来たというわけである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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