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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第8節:村の共同生活

ええ仕事

 家の呼び名、家号を手がかりとして、数軒の血縁のグループや、それがいくつか集った狭い範囲の地縁団体をつくっていることを知った。これが又、いくつか集ってひろい範囲の地縁団体となったものが村である。家々はこの血縁団体や地縁団体のいくつもの重なりの中に、それぞれの成員として組みこまれていたのである。大小さまざまの団体の中に含まれて、その共同体制の上に家の具体的な生活が営なまれたのである。一家の興亡盛衰といっても、それは個々の問題ではなくグループ全体の問題という性格で推移し展開していったのである。広野村島田領の「宗門改帳」でみた十六軒の家運の隆替もこの角度からみなければならない。広野村の家号を検討していくつかの血縁地縁団体の存在を見出した。十六軒の家々は、これらのグループのどれかに属しているのである。或はどれかとどれかに属しているのである。だからある一軒の家の不運は、その属するグループのどれかの不運であり、どれかとどれかの団体の不運である。幸も不幸も全体のものだった。各々のグループはそのグループ内の幸不幸を強力な共同体制で処理した。個々の問題はこうして全体から支えられていたのであるから、実は単純に家族構成や、田畑の多少によって、家運の隆替を判断することは出来ないのであった。
 例えば、庄左衛門は広野の上、中、下三郷の中の何郷で、その中の何々家の一家(いつけ)であり、その一家内には何々という有力者があり、何々という縁類があったということが分れば、彼の不幸な運命も、自らそこに緩急のあることが推測出来るわけである。このようにしなければ、誰がみじめであり、誰がしいたげられていたかを本当に知ることは出来ない。然し今はその「宗門改帳」の家々とその属するグループを知ることは不可能だし、又その家々を現在の世帯に重ね合わせて、家々の隆替の状況を具体的に追跡するということも出来ないことである。然しこれは出来ないでもよい。とに角いくつかのグループが存在し、個々の家が必ずそのグループに属していたということは動かない事実であるから、このことから今までいったような各々の団体の機能がはたらいていて、それが個々の家に及んでいたということが分ればそれでよいのである。
 数軒よりなる血縁団体や、それがいくつか集った狭い範囲の地縁団体は、地名や本家などの姓を冠して「何々組」と呼ばれて今に続いている。内容的には農作業、冠婚葬祭、神仰、神事などを共同に行う共同体である。神仰、神事の面を前面にとり上げた場合はお日待組ともいっている。さてこの「何々組」のはたらきを探ってみよう。先ず農作業の共同について、委員の語るところは次のようであった。

▽小林文吉氏
ええ仕事の行なわれるのは、大体田植えの時であった。近所隣というよりも気の合っているものが、二、三軒でグループを作っていた。この仲間は割れないで永続していた。

▽荻山忠治氏
 五軒組で田植えの時にやった。朝早くから、夕方は手元の見えるまで働いた。

▽森田与資氏
 うないかきのため馬持ちを中心にして、ええ仕事が行なわれた。都合のよいもの同志で仲間を作った。

▽永島一雄氏
 本家(永島氏)新宅、分家(馬がいた)の三軒で、昔からええ仕事をした。三軒のうちの終るまで、ぐるぐる廻って仕事をした。一軒の家の仕事をしているのと同じであった。仕事が多い少いといって、別に金や物でつぐなうということはなかった。麦刈りや桑原そうじで埋め合わせたりした。

▽田中勝三氏
 本家と共同作業をした。借り貸しなしで両方の仕事が終るまで続けた。蚕上げの時もええ仕事をした。

 他の委員の話も大体同じであったので省略する。
 共同作業を「ええ仕事」といっている。「ええ仕事」は「ゆい仕事」の訛(なま)りである。「い」を「え」となまって発音するのはこの地方の癖である。それで「ゆい」は「ゆえ」となり、「ゆえ」を早口に発音すれば「えー」になってしまう。「ユイ」は結(ゆ)う、結ぶ、結合、共同を意味する言葉であり、手間換(てまがえ)、手間借(てまがり)ともいわれ、組内の家々の労力交換である。多くの場合、出動する個人の労力の強弱には拘泥(こうでい)しないで、一日出動の労力に対しては、かならず一日の労力を返し、金銭や物で相殺(そうさい)しないのが特徴である。モヤヒ・テツダイなどと共に、わが国の共同制度の一種である。モヤヒは漁村に多く、ユヒは農業にさかんである。私たちの村では「ええ仕事」は一郷、一村という広い地域で行なわれることもないではないが、常時慣習的に行なわれるのは、数軒の血族グループ、それを含む両隣りという関係の間であった。作業の規模からいってもこれで間に合ったのである。冠婚葬祭はそれより大きい団体、小地縁団体が基盤となって行なわれた。そして神仰や祭事になると、郷とか村とかいう、より大きい団体がその舞台となったのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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