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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第5節:入会山

明治以後の入会山

 ここで序に江戸時代の入会地が明治になってからどう変ったか、その経路を概観して、入会地理解の一助としよう。明治初年の土地制度の改革は、従来は土地の収益に対して課税して来たがこれを改めて、土地の所有権に対して課税することを方針として出発した。政府は先ず官有地と民有地の区別を定め、民有地に対しては地券を発行して、その土地の所有者を決定し、担税者を明確にしようとした。そのため明治五年(1872)には有名な地所永代売買の禁制が解除され「自今四民共売買致所持候儀被差許候事」と布告された。それと共に「是迄官林請山或ハ立銀山等ノ唱ヲ以、年々下草永等上納致来候場所ハ其年ヨリ相廃シ……」と定められ、これを入札によって個人に払下げ、江戸時代に藩有林(本町は旗本領)に対し地元民が下草永などを納めて使用収益して来た慣行は廃止されたのである。次に又、従来村中入会、村々入会となっていた山林原野は、村の公有地として、その地券が交付された。

 「村持ノ山林郊原其地価定難土地ハ字反別而己記セル券状ヘ 従前ノ貢額ヲ記シ 肩ニ何村公有地ト記シ其村へ可相渡置事」
 「両村以上数村入会山野ハ其村々ヲ組合トシ前回同様ノ仕方ヲ以テ何村何村之公有地ト認メ……」等の規定がこれである。

 明治六年(1873)には、地所の名称区別を定める布告が出され、土地は官有公有私有の三種に大別された。
 公有地とは「野方秣場ノ類、郡市坊一般公有ノ税地又ハ無税地」であるとし、官有、私有の明瞭でないものは公有地の部類に入れられた。旧来の入会山野は公有地に編入されたのである。ところが明治六年(1873)に地租改正が行なわれると、「一村又ハ数村総持ノ山林秣場等ノ公有地ハ総テ相当ノ地租収入ノ積相心得仮ニ地価ヲ定メ規則ノ通収税可致事」となってしまった。それで官地か私有地か明確でなかった公有地も所有権の帰属を確定しなければならなくなった。よって翌明治七年(1874)には、前の地所名称区別を改正して、土地は官有地民有地の二種となり公有地の名称は廃止された。

 「村請公有地ノ内所有ノ確証有之モノハ民有第二種ニ編入可致……」と定められ、一村又は数村持の入会地は民有第二種となったのである。そして所有の確証とは、明治八年地租改正事務局の達示によって、必ずしも書類等による証拠とはせず、「従来数村入会、又ハ一村持、某々数人持等積年慣行存在シ(近隣村々でもこれを保証すれば)」その慣行を証拠として民有地として認めたのである。然しその反面に証拠のないものは勿論官有地となったのであるし、慣行があったとしても、その程度も強弱様々あったわけであるから、藩有林に対して地元村民が下草永等を納めて、利用していたものは、官有地に編入されたものもある。これらの処分に対する政府の具体的な方針は

一、旧領主や地頭が村持と定めて公(村)簿に記載してあるもの、口碑によるものも何村所有といいつたえ、近隣村で認めているものは民有。
二、村林などといって植樹や焼払等の手入をして、その村の所有地のように取扱って来たものは民有。
三、秣永、山永、下草銭等を納めていても、何等の手入などせず唯自然の草木をとって来たものは、地盤を持っていたのではないから官有。というわけであった。

 明治九年(1876)になると又、地所名称区別が改正されて、前回の民有地第二種は第一種に繰入れられた。「沿革」には各村共にこの名称区別による官民地の面積が「地種」の項に記載されている。例えば将軍沢村では総反別179町1反4畝24歩の中、民有地は122町1反1畝27歩、その中第一種は121町1反1畝27歩であり、林反別は93町余りであるから、この中には村有林もあったと思われるし、又、この村には官地の秣場芝地が50町近くあったことは前にのべたとおりである。
 然し、この官民有区分は、維新草創(そうそう)の時期で、その調査には不備の点があった。そこで政府は明治二十三年(1890)になり、官有森林原野引戻の申請を許可し、三十二年(1899)には国有土地森林原野下戻法を制定して、旧来「所有の事実」の明らかなものは申請によって、その土地の下戻をした。こうして一且官地になったものも、元の村や部落の所有地に戻ったのであるが、この時の村は江戸時代の村とは性格がちがい、法律的に定められた法人となっていたから昔の入会地は村の財産となって、村民全体の財産ではなくなった。又部落は法人格をもたないからそれ自身で財産をもつことが出来ず、代表者数人の共有地の名儀になったものが多い。小林文吉氏の話に出た吉田、越畑で払下げたという国有林は、多分このような経路をとって共有地となり、これが又個人に分割されて、純粋な私有地に変ったものと思う。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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