第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第2節:家普請(二) 村の協力
他国の話
昔の家普請について岐阜県の話であるが、参考になる部分が多いので次に掲げる。家のふしんをする時には、まず、イツケの者に寄って貰い「家を建てさせて貰いたいのでおたのみもうします」と依頼する。イツケの人たちは、その家の事情をよく知っているから勿論これを承認する。次にこれを組長に話し組長は村の寄合いでこれを村へ伝え承認をうける。以上の手続がすむと、材木の仕度にとりかかった。江戸時代は、入会山に行って必要な木に印(しるし)をつける。印のついた木には何人もさわらぬさだめであった。屋根茸用の茅も、入会山のもので、穂先きを結び合せて目印とした。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
秋の仕事が終ると、村の者が代りあって木を伐ってくれる。イツケと両隣りが山から引出してくれる。各人が弁当持ち無報酬である。大工を頼むがこれは家が出来るまで泊めて食わせていくらということで仕事をしたり、又は米半分金半分などというとりきめもあった。
本取りができると、地形(ちぎょう)である。柱の下の石を打ち込む仕事である。組長から言いつぎがでて、村内各戸から男一人はかならず出る。他に女子供など一戸から三人ぐらいまで出てくる。大黒柱からはじめて大黒柱にかえり、心棒を高く持ちあげて、その下で、祝い酒をのみ、めでたい唄をうたう。
大工は屋根の下地が出来るとひとまず手を引く。屋根葺きは村人がこれにあたる。葺き終ると村人の協力はおわるので、この日に大量の酒を用意して慰労の宴を張る。建築材も村人への賃金もいらないが、この酒を買う用意がないと普請にはかかれないのである。屋根がすむと又大工が来て造作にかかり、手伝いはイツケや両隣でやった。簡単な家ぶしんは村人だけで建ててしまった。