第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
二、村の生活(その一)
第6節:年貢率
内高と年貢
そこで考えられるのが表高と内高の問題である。今迄にものべたように、太閤検地の後江戸時代を通じて、大名、旗本などの領地はすべて石高で示され、その表面上の石高を表高といった。この表高をもとにして大名が負担する軍役や公役が課され、従ってこれが農民に対する年貢諸役の基準をも示すものであった。しかし実際に年貢を課する対象となったのは、この表高ではなく内高であった。これは実高ともいわれ、大名領地の内高は表高とちがっているのが普通で、大ていの場合内高の方が表高を上廻っていた。例へば加賀藩は表高102万石に対し幕末の内高は130万石、薩摩藩は表高77万石、内高86万石、仙台藩は表高62万石であるが、内高は100万石余であったということは人のよく知っているところである。内高が増加した原因は新田開発、切添、検地による打出などであったといわれている。内高はいわば領内の実生産高を示すものであった。
前頁にあげた村高(公式)は「文政十亥年村々地頭姓名石高下調帳」によったもので、これは表高を示すものである。私たちの村々ではこの表高に対する内高はどのような数値を示していたのだろうか。年貢賦課がこの内高を基準にして行なわれたとすれば、成程古い「村高」と後年の年貢高をならべてみても、あまり意味はないことになる。
そこで内高を調査してみよう。「沿革」には各村毎に、明治九年(1876)十二月調査の土地面積が官民別地種別に記載されている。明治九年は田畑宅地について地租改正の事業がおおむね終了した年である。地租は原則として民有地にかかるため、土地の官民有区分が明らかにされた。ここで課税の対象となった民有地は、江戸時代の内高に相当するものと見てよい。明治の地租改正では人民が所有し、年貢を納めていたことを立証できる土地を民有地とした。これを各村別には、田、畑、宅地について摘記すると第十二表のようになる。而して表ではこれを寛文の検地帳の面積とくらべその差額を算出した。
各村とも田畑宅地について増加している。将軍沢と平沢で畑面積が減っているのは宅地や水田にかわったものであろう。これを石数で表したらどうなるか。先ず寛文の検地帳により当時の石高を算出してみよう。「沿革」によって検地帳の田、畑、屋敷の面積と石盛とにより志賀村以下八ヶ村の石数を算出すると次頁のようになる。算出した寛文の石高 表高
志賀 559石350 432石460
平沢 205石770 235石840
遠山 78石950 79石013
千手堂 112石160 114石024
鎌形 714石320 685石395
大蔵 278石116 280石180
将軍沢 154石820 164石103
上段の数字は算出した石高である。下段は各村の村高である。表高である。表高は寛文の検地に基いてその当時定められたものであることはこの二つの数字が略一致していることにより知ることが出来る。志賀村は菅谷村との関係があるので他村のように単純でない。これは例外と見てよいだろう。その他の村々はピッタリ一致していると見てよいだろう。とすれば今、私たちのとった石高算出の方法は誤りでないことになる。よってこの方法によって、明治九年(1876)の数字を使って、幕末にいたる頃の内高を算出することが出来るわけである。
ところがここで困ることには、明治九年の数字は田畑ともその総計の面積が掲げてあるだけで、上中下等の石盛がない。止むを得ず左の表によって、その平均値をとって計算することにする(10+8+6)÷3=8 平均値
志賀 田 十 八 六 八
4÷1=4
畑 四 四
5÷1=5
屋敷 五 五
(11+9+7+5)÷4=8
平沢 田 十一 九 七 五 八
(7+5+3+2)÷4=4.25
畑 七 五 三 二 四・二五
10÷1=10
屋敷 十 一〇
(10+8+6)÷3=8
遠山 田 十 八 六 八
(8+6+4)÷3=6
畑 八 六 四 六
10÷1=10
屋敷 十 一〇
(10+9+7+5)÷4=7.75
千手堂 田 十 九 七 五 七・七五
(6+4+3+1)÷4=3.5
畑 六 四 三 一 三・五
10÷1=10
屋敷 十 一〇
(13+11+9)÷3=11
鎌形 田 十三 十一 九 一一
(11+9+6)÷3=8.67
畑 十一 九 六 八・六七
11÷1=11
屋敷 十一 一一
(13+11+9)÷3=11
大蔵 田 十三 十一 九 一一
(10+8+6)÷3=8
畑 十 八 六 四 八
10÷1=10
屋敷 十 一〇
(12+10+8+6)÷4=9
将軍沢 田 十二 十 八 六 九
(8+6+4+2)÷4=5
畑 八 六 四 二 五
10÷1=10
屋敷 十 一〇
この平均石盛で計算すると(括弧内は表高)
明治の石高
志賀 田 384石240
畑 184石460
屋敷 43石040
計 611石740(432石460)
平沢 田 148石630
畑 88石390
屋敷 42石920
計 279石940(235石840)
遠山 田 30石120
畑 74石940
屋敷 22石610
計 126石670(79石013)
千手堂 田 65石830
畑 79石440
屋敷 34石500
計 179石770(114石024)
鎌形 田 442石290
畑 867石090
屋敷 203石160
計 1512石540(685石395)
大蔵 田 133石320
畑 269石790
屋敷 52石000
計 455石110(280石180)
将軍沢 田 137石410
畑 49石100
屋敷 20石120
計 206石630(164石103)前述のようにこれは平均の石盛りによって算出したものであるから、上中下の田畑が略同面積の場合は大体事実に近いものが出るであろうが、どの村でも、上中の面積に比して、下、下々等の面積は、二倍から七、八倍になっていると見てよいから、それだけ下位の田畑が上位の田畑なみに見積られていることになる。従って事実とはちがって若干過剰(かじよう)の高が出ているわけである。然しともあれ、明治九年(1876)の民有地を基準に考えれば、第十二表のように面積も増しているのであるから、内高=実高は、表高を上廻っていたと考へて支障ない。かくしてはじめて、前述の村高に対する年貢高の比率も理解出来るのである。千手堂村のような68%という率も、内高に対しては71,000÷179,770=40%強となって無理のない年貢率に下ってくるのである。
然しそれにしても各村の年貢率は区々であった。五公五民といっても実際はそれより高い村も低い村もあったのであろう。「沿革」の旧租をもとにして、これを五公五民のとり高とすれば、内高はこれを二倍した数の志賀村 623石580(611石740)
平沢村 288石380(279石940)
遠山村 119石020(126石670)
千手堂村 223石600(179石770)
鎌形村 741石800(1512石540)
大蔵村 407石400(455石110)
将軍沢村 195石00 (206石630)とならなければならない。これを括弧内の算出石高に対比すると、鎌形、大蔵、千手堂の三村は差が大きいので算出の石高を補正する必要を認めるが、志賀、平沢、遠山、将軍沢の四ヶ村は両者が略々一致している。それで明治九年(1876)の民有地が、内高に相当しているという考え方は誤りではないという証拠を得たことになる。尚念のために鎌形の算出内高を補正してみよう。これは第十二表の内、増加した面積を全部下々田畑(屋敷も含めて)と見るのである。新開の田畑は本田畑に比して年貢率は低いのが常であった。
増加分 石盛 石数
田 2241畝06 7 156石90
畑 387畝03 4 15石480
宅地 1741畝17 4 69石670
計 242石050242石050の増加となる、これを寛文の算出高に加えると、956石370となって、741石800との差は縮ままるのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)