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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第6節:菅谷村郷土誌

第二編 人文界

第五章 郷土ノ沿革

第一節 口碑、傅説

菅谷ノ名称 菅谷ハ昔時次賀谷又ハ須加谷ト書シタリ
現今ハ此菅谷ト志賀、平沢、千手堂、遠山、鎌形、大蔵、根岸、将軍沢ヲ併セ菅谷村ト称セリ

将軍社 大字将軍沢ニアリ。当社ニ関スル古記録等ハ永禄兵燹ニ失ヒシヨリ其實ヲ傅フルナシ。創立年紀詳ナラズト雖モ古老ノ口碑ニ據レバ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際、近傍岩殿山ニ巨蛇アリテ土地人民ヲ害セリ。将軍其被害ヲ憫ミ一朝之レヲ退治シテ土人ヲ安堵セシメタリ。時恰モ盛夏六月ナリシモ、天変雹雪ヲ降ラシ、寒氣強カリシタメ、土人麥稈ヲ焚キ将軍ニ煖ヲ供シ、其ノ後将軍ノ功徳ヲ頌シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。今モ尚年々六月(陰暦)一日、土人麥稈ヲ焚テ記念ノ祝祭ヲナス慣例アリテ、比企郡ノ南部、入間郡ノ北部諸村落ニ及ボセリ
当社ハ古来将軍沢字大宮ト唱フル地ニ鎮座在リテ、坂上田村麿将軍大宮権現ト称シ、規模宏壮タリキト云フ
他説ニハ田村将軍ニアラズ利仁将軍ナリトモアリ

鎌形ノ塩山 塩山ハ八幡社ヲ祀リシ処ニシテ、現今ノ当社ヲ距ル西北約四町ニシテ峨々タル嶮阻ナリ。東ハ上原谷、西ハ小倉山、南ハ小窪ニシテ、麓ニ槻川ノ曲流ヲ帯ビ、断岸絶壁竒岩怪石磊々トシテ、一勝台域ヲナセリ。又塩沢ト云フ所アリ。往古此辺ヨリ陸塩ヲ出シタルコトアリト云フ。因テ塩山、塩澤ノ名起レリト云フ。尚又当神社ヨリ西南約二町半ニ木曽殿屋敷ト唱フル地アリ。即木曽義仲出生ノ処ト云フ。蓋義仲ノ父帯刀先生義賢ハ秩父次郎太夫重澄【重隆】ノ養子ト為リ、当郷大蔵堀及上野國多胡庄ニ居ヲ為セシガ、久寿二乙亥年(きゅうじゅ)(1155)八月多胡庄ヨリ塩山ニ移ラントシテ大蔵堀ニ到リシトキ、兄源義朝ノ長子義平ニ殺サレ、義仲当時幼児タリシカバ、人(齋藤實盛)ニ介抱セラレテ死ヲノ免カレ木曽ニ至リ、中原兼遠ニ保育セラレテ人ト成ルニ及ンデ、産地ノ神祠ナルヲ以テ特ニ当社ヲ崇敬シタリ。其長子義高来リ住スルコトアリテ亦厚ク崇敬セリト云フ


第二節 古蹟、古史ノ調査

菅谷城址 畠山重忠ノ相地創築シタルモノニシテ現形菅谷(小川松山道)通リノ南数丁ニ位シ約三丁四方ノ丘陵ナリ。南方ハ東流セル都幾川ニ臨ミテ處々絶壁ヲナシ、大概五六丈ノ高峰連綴シ、北方ハ元宿ト称スル処ヨリ平地ニ高キコト二三丈ノ土堤ヲ以テ里道ニ沿フテ蝘蜒(えんてい)シ、東西復タ澗田谿窪ヲ以テ限リ、尚北面左右翼隅ニ、追手門、搦手門等ノ遺型在リ。現今陸田ニ変ジテ多ク桑楮其他農植ノ間、彼此ニ松柏ノ踈林、或ハ芽薄葛蘿ノ参差タルヲ認ムルノミナルモ、昔時天嶮ノ一壮郭墟タリシヲ偲バルルナリ。「梅花無盡蔵」ニ長享戊申八月十七日入須加谷之北平沢山問太田源六資康之軍営。「東地土産」ニ鉢形ヲ出デ須加谷ト云フ所ニ小泉掃部助ノ宿所ニ逗畄云々。「東鑑」元久二年六月ノ条ニ重忠十九日小倉郡(ママ)菅谷ヲ出デ云々。「宴曲抄善光寺修行日」結ブ契リノ名残リヲモ深リヤ思ヒ入間川此里ニイサ又トマラバ誰ニカ敷妙ノ枕並ベント思ヘドモ妹ニソハズノ森ニシモ落ル涙ノシガラミハ、ゲニ大蔵ニツキ川ノ流モ早ク比企野ガ原秋風ハゲシ吹上ノ梢モ淋シクナリヌラン。打渡ス早瀬ニ駒ヤナツクラン。タギリテ落ル浪ノ荒川行スギテ云々トアリ。此地ノコトナリ

義賢ノ墳墓 大字大蔵ノ東方、松山(まつやま)平(たいら)間ノ県道ノ傍ニアリ、現今新藤某ノ所有地ニアリ。久寿年中古墳畑中ニアリ。相傅ヘテ帯刀先生義賢ノ墳墓トナス。高三尺許リノ塔ナレトモ五輪モ缺損シ其中僅ニ梵字ヲ彫リタルヲ認ムル一石アルノミナリ。ソレニ雨覆ヲナシ注連ヲ張リ、土人ハ又尼御前ノ碑ナリトモ傅フ。義賢ハ六条判官為義ノ二男ニシテ帯刀先生又ハ多胡先生ト称ス。大蔵ハ昔帯刀先生義賢ガ武州大蔵館ニ居リシト云フ旧地ナレトモ、其遺蹟ノ確固タルモノナシ
長門本源平盛衰記ニ彼義賢去仁平三年夏ノ此上野國多胡郡ニ居シタリケルガ秩父次郎太夫重隆ガ養君ニナツテ武蔵國比企郡ヘ通ヘケル程ニ当國ニモ限ラズ隣國マデモ随ヒケリ
重隆ハ他本ニテハ重澄トナレリ。重澄ハ重綱ノ子ニシテ秩父太夫重弘ノ弟ナリ
「平治物語」待賢門ノ戦ニ義平ノ言ヘル詞
此の手の大得は誰人ぞ名乗れきかん。かく申すは清和天皇九代の後胤鎌倉の悪源太義平ト申者なり。生年十五歳武蔵大蔵の軍の大将として伯父帯刀先生義賢を討ちしより以来度々の合戦に一度も不覚の名を取らず。年積りて十九歳見参せんとて五百騎の真中へ破って入り云々

将軍沢 菅谷村ノ一大字ニシテ大字大蔵ノ南方ニアリ。坂上田村麿ヲ祭レル神社アリ。将軍沢ノ名モ之レヨリ起ルト云フ
此一村ハ往時上州世良田長楽寺領ナリシコト古文書ニ見エタリ。世良田長楽寺為修理用途奉永代寄進武蔵國比企郡南方将軍沢郷内二子塚入道跡在家壹宇並田三段毎年所當八貫文事
右依為氏寺為末代修理永代奉寄進者也然者及子孫不可致違乱背此之旨輩者永可為不孝仁仍自筆之状如件元徳二年八月二日源満義
世良田長楽寺所蔵文書ニ曰ク武蔵國比企郡南方将軍沢郷内為灯明用途田三段任家時申置之旨所奉寄進世良田御寺也若於違乱之輩者永可為不孝之仁仍寄進之状如件正安元年八月二日沙弥静真

千手堂 菅谷村ノ一大字ニシテ大字菅谷ノ西南ニアリ。入間郡黒須蓮華院観音堂鰐口ノ銘ニ武州比企郡千手堂寛正二年辛巳云々トアリ

平沢寺 大字平沢ニアリ。現今ハ廃寺トナレリ。享保ノ頃トカヤ其境内ニ続ケル地ニ土人長者塚トイヘル古キ塚ヲ堀リシニ古木ノ根ヨリ如法経筒一口出ヅ。銅製ニシテ尤モ古色アリ。久安四年ノ銘文アリ。東鑑ニ文治四年武蔵平沢寺院主被附僧求寛記トアルハ当寺ノコトナルベシ。何時ノ頃ニヤ一度廃寺トナリシヲ郡中平村慈光寺ノ住職重永天正ノ頃ニヤ中興セシト云ヘリ。宗長ガ東路土産ニ須加谷ニ至リ小泉掃部介ノ宿所ニ逗留シ其ノホトリノ平沢寺ニシテ連歌アリ。此ノ寺ノ本尊ハ不動尊。池ニフリタル松アリ。僧萬里梅無盡蔵長享二年八月ノ条ニ十七日入須加谷之北平沢山問太田源六資康之軍営於明王堂畔。ニ三十騎突出迎余。又云七月十八日須加谷有両上杉戦死者七百餘員馬亦数百疋。敬曰勸進沙門實典奉旋入加法経御筒一口右志者為自他法界平等利益也久安四年歳次戊辰二月二十九日戊午當國大主散位平朝臣慈縄方縁等藤原守道安部末恒藤原助員

八幡神社 大字菅谷ノ南方ニ鎌形ト云フ大字アリ。其ノ南方ニ鎮座セリ。当社ハ人皇五十代桓武天皇ノ御宇延暦十二癸酉年将軍坂上田村麿東夷征伐トシテ下向ノ時当所ノ塩山ニ到リ地景ニ感アリテ筑紫宇佐八幡神ヲ遥遷祭祀セラレ。仝十六丁丑年奥羽ノ國司ヲ兼テ再度下向ノ節社殿ヲ増築シ恭敬ヲ盡サレシヨリ郷民之ヲ産土神ト尊崇セリ。其後鎮守府将軍源義家木曽左馬頭源義仲右大将源頼朝及夫人北条政子等厚ク信仰アリテ何レモ神田ヲ寄附セラレ営繕ヲ加ヘラレテ社殿ノ結構壮麗シ極メタリト云フ。而シテ現今存在ノ神体ト云ヒ傅フルハ円頂法服ニシテ念珠ヲ把持セラルヽモノニテ傅教大師ノ彫刻ナリトゾ。又銅華蔓二個ヲ傅フ。一ハ円径五寸五分ニシテ弥陀ノ座像ヲ鋳出ス。傍ニ安元二丙申天八月之吉清水冠者源義高トアリ。一ハ円径四寸八分薬師ノ座像ヲ鋳出ス。左傍ニ貞和四戊子年七月日大工兼泰トアリ。其他ノ文字ハ磨缺シテ讀ム可カラズ。当社上古ハ当大字塩山ト云フ処ニ在リシヲ中古兵燹ニ罹リ社殿烏有ニ属シ、乃チ現今ノ地ニ遷セシヨリ以降ハ漸々衰微シタリシガ、天正十九辛卯年十一月徳川家康ヨリ社領二十石ヲ寄附セラレ、次デ代々将軍ヨリ朱印ヲ以テ該地ヲ賜ハリ来リシヲ、維新明治元戊辰年十一月之ヲ奉還スルニ至リ、仝七年ヨリ仝十一年□遽減録ヲ下賜セラレタリ。又当時ノ鐘ハ往時軍旅ニ奪ハレ、今秩父郡御堂村浄蓮寺ノ寳器トナル。銘ニ曰ク上州繰野郡板倉郷圓光寺鐘正慶二年三月云々
武州比企郡鉢形郷八幡宮鐘大檀那矢野安藝守文明十一年巳亥八月九日ト鋳リタリ

鬼鎮神社 大字志賀ノ内川島ニ在リ。古来口傅ニ寿永元年ノ創立ニシテ畠山重忠城砦ヲ菅谷村ニ築営セシ後、北門ノ守護神(里俗鬼門余)トシテ衝立久那土神ヲ鎮祭シタル神社ナリト云フ


第三節 徳川時代管轄所属

菅谷 初メ岡部太郎作知行所ニシテ寛文五年時ノ地頭検地セリ。其後子孫徳五郎ノ時上地セラレシヨリ御料所トナリ、安永九年猪子左太夫ニ賜ハリ子孫栄太郎知行セリ

志賀 古ヘ岡部太郎作ノ采地ナリシガ、明和九年上リテ御料所トナリ、安永九年秋元但馬守ニ賜リ今モ子孫左衛門佐領セリ。検地ハ前村ニ同シ

平澤 正保ノ頃御料所ニテ、寛文八年坪井次右衛検地シ、延寳八年中川八郎左衛門新田ヲ糺セシト云フ。其後元禄十一年金田周防守ニ賜リシヨリ子孫主殿ニ至レリ

遠山 御入國ノ後ヨリ御料所トナリシカ、寳永六年内藤某ニ賜ハリ子孫主膳知行セリ。検地ハ寛文八年坪井次右ヱ門改メシト云フ

根岸 御入國ノ後ハ御料所ニシテ、寛文八年時ノ御代官深谷喜右衛門検地セリ。其後イツノ頃ニヤ島田某ニ賜ハリ子孫島田藤十郎知ル所ナリ

大蔵 正保ノ頃ハ御料所ニシテ、検地ハ夫ヨリ前寛永三年ニアリシニ、後次第ニ新田ノ地開ケシハ萬治三年、寛文八年、天和二年ノ三度、時ノ御代官糺セリ。元禄四年地ヲ割テ石黒某ニ賜ハリ、残ル御料ノ所ハ寳歴十四年清水殿領地トナリシヲ、寛政九年再ビ御料トナリタリ

将軍沢 御入國ノ後ハ御料所ナリシニ、元禄十一年村内ヲ割テ大島氏ニ賜ハリ子孫大和守知ル所ナリ、残レル御料ノ地ハ寳暦年中清水殿領地トナリ、後再ビ御料トナリ御代官支配セリ

鎌形 正保ノ頃ハ御代官所ニテ寛文八年曽根五郎左ヱ門検地セリ。後元禄十一年金田周防カ采地ニ賜ハリ夫ヨリ引続キ子孫主殿知ル所ナリ。此余持添新田アリ。元文五年芝村藤右衛門、明和五年宮村孫左衛門、文化六年浅岡彦四郎等検地ス

千手堂 古ヘヨリ御料所ナリシカイツノ頃ニヤ大岡越前守ニ賜ハリ、寳暦元年所替アリテ御料所ニ属シ、同十三年清水殿ノ領地トナリ、寛政九年上リテ御料所ニ復セリ。検地ハ寛文八年坪井次右衛門糺セシ後、延寳八年新開ノ地アリテ中川八郎左衛門改メシト云フ

川島 廣野村ノ一小名ニシテ飛地ナリシガ、町村制改正ノ際大字志賀編入セリ


第四節 西南事変以来名誉ノ戦病死者

死亡年月日 畧歴 官等 氏名
明治卅七年十一月十一日    清國盛京省内高家堡第十二師團野戦病院ニ於テ死亡 陸軍騎兵軍曹勲七等功七級 関根倭一

仝年十月十三日 清國黒牛屯北方高地ニ於テ死亡 陸軍歩兵伍長勲七等功七級 小峰七五三

仝卅八年三月九日 清國盛京省団義屯附近ニ於テ死亡 仝歩兵上等兵勲八等功七級 福島友次郎

仝卅七年九月十九日 清國盛京省水師営南方高地ニ於テ死亡 仝 冨岡福次郎

仝年十一月廿八日 清國盛京省旅順口方面ニ於テ死亡 仝歩兵一等卒勲八等功七級 高野満五郎

仝年十月九日 清國盛京省大王荘第一師團第二野戦病院ニ於テ死亡 仝歩兵二等卒勲八等 高橋浅次郎

仝年四月十六日 朝鮮國平安道大福舎営ニ於テ死亡 仝輜重輸卒 大野福助

『菅谷村の郷土誌』1912年(明治45)?
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