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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第2節:新編武蔵風土記稿

比企郡 (十)

菅谷村(比企郡菅谷村大字菅谷)*1

 菅谷村(すがやむら)ハ江戸ヨリ十五里*2、郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘヲ伝ヘズ。古ハ須賀谷ト書キシヲ仮借(かしゃく)シテ今ハカク記セリ。『梅花無尽蔵*3』ニ長享(ちょうきょう)年間(1487-1489)、須賀谷之地平沢山ト云フコトミエタリ。其文ノ大略ハ古城蹟(こじょうあと)ノ条ニ出セリ。平沢ハ隣村ナレバ当村ヲ指セシコト明ナリ。下リテ正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃マデモ須賀谷ト書キシガ、元祿ノ図*4ニハ菅谷ト書シタレバ、改リシハ元祿前ノコトナルベシ。戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道へ出ル脇往還(わきおうかん)ニシテ人馬継立(つぎたて)ヲナセリ。東ハ月輪(つきのわ)村ニ接シ、巽*5ノ方ハ上唐子(かみがらこ)村ニテ、南ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テ大蔵(おおくら)村ニ隣リ、西ハ平沢・志賀ノ二村ニテ北ハ杉山・太郎丸ノ二村ナリ。東西八町南北九町。此モ天水ヲ待テ耕セリ。御入国*6ノ後ハ岡部太郎作*7ノ知行所(ちぎょうしょ)ニシテ、寛文五年(1665)時ノ地頭(じとう)撿地(けんち)セリ。其後子孫徳五郎*8ノ時、上地*9セラレシヨリ御料所トナリ、安永九年(1780)猪子左太夫*10ニ賜リ子孫栄太郎知行セリ。

*1:現・埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷
*2:1里は約3.927キロメートル。
*3:梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)…室町時代の漢詩文集。著者は万里集九(ばんりしゅうく)。
*4:元祿ノ図(げんろくのず)…『新編武蔵風土記稿』の比企郡巻1にある郡図の「元禄年中改定図」のこと。
*5:巽(たつみ)…南東。
*6:御入国(ごにゅうこく)…徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
*7:岡部太郎作(おかべたろうさく)…旗本。岡部家二代目の岡部玄蕃(げんば)のこと。初代岡部主水(もんど)の母は家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
*8:岡部家8代目。『新編武蔵風土記稿」の勝田村の項には「罪アリテ没収セラレ御料所トナリ」と記されている。
*9:上地(あげち)…没収。
*10:猪子左太夫(いのこさだゆう)…旗本。

高札場*1 北ノ方ニアリ。
 小名 元宿(もとじゅく) 昔宿並(しゅくなみ)ヲナセシ所ナリ。
都幾川 南方ヲ流ル。川幅二百間*2
山王社*3 村ノ鎮守ナリ。村持下同ジ。
稲荷社*4
天神社*5

*1:高札場(こうさつば)掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。
*2:間(けん)…1間は約1.8メートル。二百間は、およそ360メートル。
*3:山王社(さんのうしゃ)…1907年(明治40)に菅谷神社と改称した。
*4:稲荷社(いなりしゃ)…五穀豊穣(ごこくほうじょう)をもたらす神を祭った。
*5:天神社(てんじんしゃ)…学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祭った。

東昌寺(とうしょうじ) 当時元ハ長慶寺(ちょうけいじ)ト云フ。古城ノ鬼門*1ニアリ、其頃ノ開山*2ヲ伝ヘズ。後寛文(1661-1673)ノ始能国芸大ト云フ僧、村民孫右衛門トイヘルモノト謀(はか)リテ今ノ地ニ引移シ、長慶山東昌寺ト改メ、曹洞宗遠山寺(えんざんじ)ノ末トナリ、再興ノ功ハ則チ本山二世幻室伊芳ニユヅリ、コレヲ勧請(かんじょう)開山トナセリ。サレバ能国芸大ハ寛文八年(1668)十二月十六日ノ示寂*3ナレドモ、開山ノ僧伊芳ハ天文五年*4(1536)二月朔日*5ノ示寂ナリ。本尊弥陀*6ヲ安ス*7
観王堂*8 千手観音(せんじゅかんのん)ナリ、村持。

*1:鬼門(きもん)…陰陽道で、鬼が出入りする門とされ忌み嫌われた北東の方角。災いを避けるために鬼門の方角に神仏を祭った。
*2:開山(かいざん)…寺を開いた僧侶。
*3:示寂(じじゃく)…高僧の死のこと。
*4:天文五年…雄山閣版『新編武蔵風土記稿」では天文十五年(1546)。
*5:朔日(さくじつ)…陰暦(いんれき)で月の第1日。ついたち。
*6:弥陀(みだ)…阿弥陀(あみだ)の略。
*7:安(あん)ス…安置する。
*8:観王堂…雄山閣版『新編武蔵風土記稿』では観音堂である。

古城蹟眺望図
古城蹟眺望図

古城蹟 凡(およそ)三丁*1四方ノ地ニシテ南ノ一方ハ都幾川ヲモテ要害(ようがい)トシ、其余ノ三方ハ穴堀アリテ所々ニ堤(つつみ)ノ形残レリ。其内ハ総テ陸田トナリタレド、今モ本丸・二ノ丸・三ノ丸等ノ名アリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』ニ云フ、長享(ちょうきょう)戊申(つちのえさる)(1488)八月十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康*2之軍営(ぐんえい)ト。此辺ニ平沢村アレバ須賀谷ハコヽノコトナルべケレバ、此頃ハ太田氏ノ陣営ナリシコト知ラル。又『東路土産*3』ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ、小泉掃部助*4ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)云云(うんぬん)トアリ、今モ当所ヨリ上州(じょうしゅう)ニ至ルニ小川・鉢形ト人馬ヲ次デ順路ナレバ、此書ニ載(のせ)セタル小泉ガ宿所モ当所ノコトナルベシ。又ココヲ畠山重忠居城ノ地トモ云ヒ、後岩松遠江守義純*5一旦畠山ガ名籍*6ヲ続イテ爰(ここ)ニ住セシナドイヘリ。サレド重忠晩年当所ニ移リシコトシラル。『東鑑*7』元久(げんきゅう)二年(1205)六月二十二日ノ条ニ、重忠十九日小衾郡*8菅谷ヲ出テ云云トアレバ、全クコノ地ノコトナルベシ*9。郡名ハタマタマ訛(なま)リ書セシニヤ。男衾郡畠山村古城蹟ノ条ト参考スベシ。

*1:丁…距離の単位町(ちょう)のこと。1町は約109メートル。
*2:太田源六資康(おおたげんろくすけやす)…扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老太田道灌(どうかん)の息子。道灌は扇谷上杉氏の下で江戸城や河越城(かわごえじょう)の築城も担当。父道灌が扇谷上杉の実権を握っていることから主君の上杉定正に殺害されたため、太田一族は山内上杉家のもとに走ったといわれている。
*3:東路土産…『東路津登(あずまじのつと)』のこと。
*4:小泉掃部助(こいずみかもんすけ)…後北条氏の家臣で、当時菅谷城の城代(じょうだい)。
*5:岩松遠江守義純(いわまつとおとうみのかみよしずみ)…源氏から分かれた新田氏二代目の新田義兼の娘が、同じく源氏から分かれた足利氏の義純を婿(むこ)に迎え、その間に時兼(ときかね)が生まれた。義純は足利姓で、息子の時兼から岩松姓を名乗るようになった。上野国(こうずけのくに)新田荘岩松郷(群馬県新田郡旧尾島町)に住み地頭職を務めた。後に明治になったとき子孫の俊純(としずみ)は男爵(だんしゃく)になり、新田氏を称した。なお新田義兼の弟新田義季(よしすえ)は後に名を変え、徳川氏の始祖(しそ)とされる徳川義季となる。
*6:名籍(めいせき)…名簿。ここでは「名跡」(みょうせき)の意か。
*7:東鑑(あずまかがみ)…『吾妻鏡(あづまかがみ)』。鎌倉幕府編さんの歴史書。1180年の源頼政の挙兵から、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任されて1266年に京都に帰るまでを記述。
*8:小衾郡…男衾(おぶすま)郡のこと。
*9:雄山閣版では「ことにして」。

『新編武蔵風土記稿第16巻』「比企郡(十)」 新編武蔵風土記稿刊行会, 1957(昭和32)1月15日
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