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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第2節:新編武蔵風土記稿

比企郡 (六)

大蔵村(比企郡菅谷村大字大蔵)*1

大蔵村(おおくらむら)ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*2、大蔵郷(おおくらごう)ニ属シ領名(りょうめい)モ亦前村ニ同ジ*3、昔帯刀先生義賢*4ガ武州大蔵ノ館(やかた)ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟(きゅうせき)今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿(きゅうじゅ)(1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論(ろん)ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村(しょうぐんざわむら)、西ハ鎌形村(かまがたむら)ニテ、北ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テヽ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃ハ御料所*5ニシテ検地(けんち)ハ夫(それ)ヨリ前寛永(かんえい)三年*6(1626)アリシニ、後次第ニ新田(しんでん)ノ地開ケシハ万治(まんじ)三年(1660)・寛文八年(1668)・天和(てんな)二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄(げんろく)四年(1691)地ヲ割(さい)テ石黒某ニ賜(たまわ)リ、残ル御料ノ所ハ宝暦(ほうれき)十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替(かわ)ラズ。

*1:現・埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵
*2:根岸村と同じで、江戸より16里。
*3:根岸村と同じで、玉川領に属する。
*4:帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)…源義賢(みなもとのよしかた)。近衛天皇(このえてんのう)の皇太子時代にその護衛(ごえい)をする帯刀(たちはき)した長官であったのでこのように呼ばれた。義賢は木曽義仲(きそよしなか)の父。源義賢は兄義朝の長男源義平=悪源太義平(あくげんたよしひら)に攻められ討ち死。義賢の子二歳の駒王丸(こまおうまる)は畠山重能(しげよし)、斉藤実盛(さねもり)らに助けられ、長野の木曽谷(きそだに)で成長して後の木曽義仲になる。
*5:御料所(ごりょうしょ)…幕府の直轄領。天領。
*6:雄山閣版(19666月発行)により、寛文三年を寛永三年に訂正。

高札場*1二ヶ所 御料私領ノ二所ニ分チ建リ。
 小名 堀ノ内 木ノ宮 御所ヶ谷戸 柏田 入鹿 遠山ヶ谷戸 傾城久保 地尻 粟津ヶ原 不逢ヶ原トモ云フ
都幾川(ときがわ) 北端ヲ流ル、川幅二百間*2

*1:高札場(こうさつば)…掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。
*2:間(けん)…1間は約1.8メートル。

山王社(さんのうしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、社領十石ハ慶安(けいあん)年中(1648-1652)賜(たまわ)レリ。 ○別当*1 安養寺(あんようじ) 天台宗*2、下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺ノ末、大乗山寂光院(だいじょうさんじゃっこういん)ト称ス。本尊阿弥陀(あみだ)ヲ置リ。開山広覚応永(おうえい)元年(1394)草創(そうそう)トノミ伝ヘリ。サレド是等(これら)ニ拠(よ)レバ山王社モ旧キモノナルベシ。
天神社*3
愛宕社*4
天王社*5
神明社*6
稲荷社*7
諏訪社*8 以上安養寺ノ持。
神明社 村民ノ持。

*1:別当(べっとう)…神社の管理者。
*2:平安時代に唐の天台山で天台宗を学んだ最澄が帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。
*3:学業成就(じょうじゅ)・学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。
*4:愛宕社(あたごしゃ)…防火の神。
*5:疫病(えきびょう)の神。厄除(やくよ)け祈願。
*6:天照大神を祀る。
*7:農耕神・商売繁盛の神。
*8:諏訪社(すわしゃ)…狩猟・農耕・武芸の神。

向徳寺(こうとくじ) 時宗*1、寺領十石、慶安(けいあん)二年(1649)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜ヘリ。相模国(さがみのくに)藤沢*2清浄光寺*3ノ末、大福山無量院ト号ス。開山清阿宝治(ほうじ)二年(1248)四月八日寂(じゃく)セリ。後廃寺(はいじ)トナリシニ向阿徳音中興セリト云フ。此僧ハ天和(てんな)二年(1682)十二月十五日寂セリ、今ノ寺号ハ此僧ノ名ヲ用ヒタルニ似タレド、中興ノ時改メシモノナルベシ。本尊三尊阿弥陀 恵心僧都*4ノ作ナリ。 ○鐘楼(しょうろう) 鐘ニ元文(げんぶん)五年(1740)鋳造(ちゅうぞう)ノ銘アリ。 ○熊野社*5 ○稲荷社

*1:時宗(じしゅう)…鎌倉時代に一遍智真(いっぺんちしん)によって開かれ浄土教の一宗派。
*2:現・神奈川県藤沢市。
*3:清浄光寺(しょうじょうこうじ)…時宗の総本山。
*4:恵心僧都(えしんそうず)…平安時代中期の高僧源信。
*5:国土安泰・延命長寿・無病息災の神。

古城蹟(こじょうあと) 村ノ西方ニアリ方一町許(いっちょうばか)リ、構(かまえ)ノ内ニ稲荷社アリ今ハ大抵陸田トナレリ、カラ堀及ビ塘(つつみ)ノ蹟(あと)残レリ。此ヨリ西方ニ小名堀ノ内ト云フアリ。昔ハ此辺マデモ構ノ内ニテ帯刀先生義賢ノ館蹟(やかたあと)ナリト云フ。サレド『東鑑*1』ニ義賢ハ久寿(きゅうじゅ)二年(1155)八月武蔵国大倉館(おおくらやかた)ニ於テ鎌倉悪源太義平ガ為ニ討亡ボサルトアリ。此事ハ『平治物語*2』『百練抄*3』等ニモ載せタレド事実ノ詳(つまびらか)ナルコトハ記録ナシ。大蔵ト云フ地名ハ多磨郡*4ニモアレド、当所義賢墳墓(ふんぼ)アリ、又郡中ニ義賢ニツカヘシモノノ子孫遺(のこ)ルトキハ、此処義賢ガ旧跡ナルコト疑フベカラズ。

*1:東鑑(あずまかがみ)…『吾妻鏡』のこと。
*2:平治物語(へいじものがたり)…鎌倉時代初期の軍記物語。
*3:百練抄(ひゃくれんしょう)…冷泉天皇(れいせいてんのう)から後深草天皇(ごふかくさてんのう)にいたる編年体(へんねんたい)の記録。武家方の『吾妻鏡』と対比される公家方の重要資料。
*4:多磨郡(たまぐん)…源義賢居住の伝承は町田市大蔵や世田谷区大蔵に残されている。

古墳(こふん) 巽(たつみ)ノ方*1村民丈右衛門ガ持ノ畑中ニアリ。相伝フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト。高サ三尺許(さんじゃくばかり)トオボシキ塔ナレドモ半ハ土中ニ埋リ、且五輪*2モ欠損シ其中ワズカニ梵字(ぼんじ)ヲ彫リタル五輪ノ内ノ一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆(おお)ヒヲナシ注連(しめなわ)ヲ引キ土人*3ハ尼御前*4ノ碑ナリトイヘドコレモ定カナラズ。

*1:南東の方角。
*2:五輪(ごりん)…地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなる五輪塔。平安時代中期から鎌倉期に造られた供養塔。
*3:土人(どじん)…土地の人。
*4:尼御前(あまごぜん)…あまごぜ。「御前」は、中世、女性に対して用いられた敬称の接尾語。尼に対する敬称。ここでは源義賢の妻。

『新編武蔵風土記稿第16巻』「比企郡(六)」 新編武蔵風土記稿刊行会, 1957(昭和32)1月15日
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