ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

吉田

吉田宗心寺の住職交替騒動

 寺の住職が替わる時は住職が老齢になって隠居する場合、死去した場合、他寺へ転住する場合等が考えられる。その場合後住を推薦するか、総檀中・村役人と相談して人を選び本山へ願い出でるか、或いは本山から適任者が派遣されて来るという形をとることが多い。しかしこうした在り来たりの交替相続でないものが出来(しゅったい)した。

 吉田にある三休山宗心寺は旗本1200石折井家の菩提寺であり由緒正しい寺であるが、1818年(文化15)住職寿山の退任に当たって一つの騒動が起こった。

 寿山は先住周山の弟子で、1806年(文化3)以来、宗心寺住職を勤めて来たが1818年(文化15)2月病をえて、役務も勤めかねる様になり隠居を決意、その後住を探すことになつた。先ず、原島村(大里)福王寺の見宗和尚に頼んだが断わられ、次いで玉川村(比企)松月寺の階天和尚にも断わられ、仕方なく法類(同宗同派の親しい関係にある寺)中に相談したが、いずれも辞退されてしまった。その理由は「大借故」としているが、師僧周山の言によれば「住職中身持不埒ニ付無油断再応教諭致し候得共一向不取用講堂為及大破其上多分大借致し住職難相成」という次第で、借財だけでなく品行が悪く、講堂も大破した荒れ寺というのでは、後を引き受ける者がないのも当然であった。万策尽きて隣寺の組合に世話して貰う様頼み込んだところ、相談の上全員一致で師匠である周山に再住を願うことになった。周山も弟子の所業の後始末と思い多分の借財覚悟のうえで再住を覚悟した。一方寿山は隠免(隠居した際生活費として持ってゆく田地)手当として存命中拾両を下賜されることになった。

 退任しても拾両という大金を一生貰えるという。寺としては極めて寛大な処遇をしたのだが、事はこれだけでは済まなかった。再住した周山は1819年(文政2)10月寺社奉行所へ寿山の「久離(きゅうり)」を願い出た。久離というのは親子兄弟の縁をきって債務責任を免れるようにする行為であるが、この場合寺院師弟との関係を断っことであった。寿山は退任後僧家として不似合いの行跡が多く、その上益々不法の事を計画し法類方へ種々難題を申し掛ける始末で、とてもこれから先僧業を全うすることは出来ないと判断して久離を願い出たのである。なお又、周山自身も老衰に及び隠居しようと後席の依頼をしても寿山から難題を持ち掛けられたり、後難を恐れて「後住之仁無」という状況であることを訴え寿山との関係を断つことを願った。これに関しては宗心寺本山加田の慶徳寺住職実宗も寿山の不行跡を認め添簡(添書のこと)を差し出している。

 1820年(文政3)周山は雉賢和尚に後席を譲り隠居したが、1827年(文政10)雉賢は病死、遺言により隠居周山に後事を委任、文中後席に玉川村の竜福寺劫外が推挙されていたので、周山は檀中総代方々の納得を得て劫外和尚を17代住職とした。

 その3年後1830年(文政13)3月、14世周山の荼毘式(火葬による葬式)が行われた。周山は1806年(文化3)から1830年(文政13)までの間に宗心寺にあって自ら二度までも住職を勤め、雉賢・劫外の住職交替にも力を尽くした。宗心寺としては忘れがたい人物というべきだろう。

参考文献・資料:
 宗心寺文書56 文化十五年二月「議定証文之事」
 宗心寺文書57 文政二年十月「乍恐以書付奉願上候」
 宗心寺文書58 文政二年十月「乍恐以書付奉願上候」
 宗心寺文書61 文政二年十月「差上申添簡之事」
 宗心寺文書62 文政三年四月「隠免書付」
 宗心寺文書87 文政十三年三月「十四世和尚荼毘式諸入用控」

このページの先頭へ ▲