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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

千手堂

古老に聞く

火渡り刃渡りの神事  西沢富次郎氏

                    小林博治

 千手堂内田虎吉氏の屋敷前、県道に沿つた畑の西南部に、熊野神社が祀られてある。宮のたたずまい、鳥居社碑等にかりそめならぬ信仰の深さを感じて、行人の足は自らここにとまる。
 この神社の祭りが、毎年三月三日、西沢富次郎さんによつて行なはれ、御神酒酒を上げ近所の子供達に団子を呉れて終つている。これはもと、旧正月十七日に行わはれ、村内の信者が、うるち牡丹餅を奉納して、祭典を行なつていたが、時代の移りと共にいつかこの習慣も薄れて、現在の形に簡素化された。
 この熊野信仰は、もと御岳講から始つたもので、御岳講が崩れて遂に解散したあと、講人の西沢富太郎、父の男女吉、関口吉蔵(現利重)、関口福次郎(現幸衛)、内田為五郎(現豊三郎)、内田新五郎(現正作)、内田虎吉(現明成)さん達が集つて、この熊野講を結成した。
 出雲の熊野神社は、すさのをの尊を祀り、出雲大社と併称された有名な神社で地方では、火難・盗難除けの神として信仰されている。
 火渡りや剣の刃渡りの神事は、この火難・盗難除けの神徳に関するもので、この行事によつて熊野神社のお札に火ぶせ・やく除けの神威がこもり、近隣から集る信者が争つてこのお札を受けて帰るのである。
 さて、火渡りの神事とはその行者・西沢さんによれば、松薪一〇〇本を積み並べてこれに火をかける。中座と称する行者を中心に講人がこれを囲んで坐し祈祷をはじめる。
「オンサンバタラヤシリソワカ」呪文が繰り返され祈祷が最高調に達すると、中座に神がのり移る。中座の手にある大きな幣束の紙が風もなしに急に逆立つのである。そして両足を堅く縛つて胡座した行者がそのまま、二三尺の高さに跳び上るという。これは関根茂良氏も目の当り見たと語つた。かくして神がのりうつり、精神の統一が出来た行者はやおら立つて、燃えしきる猛火の中を真跣足で歩き渡るのである。勿論本人は熱さを感じないし、火傷もしない。
 刃渡りの神事は、剣の刃を上に向けて、梯子の如く組み立て、垂直に立てて、これを昇り且つ降りるのである。西沢さんは十三段の剣の梯子を昇降したという。これも全然怪我をしないのである。精神統一が出来ると炎の色はカニ色に映り、つるぎの刃元から白い御光が射すように見えるという。
 完全に精神統一が出来たかどうかは、前述のように行者の手にある幣束が大きく上下するので分る、不十分の時はこれが動かない。神がのりうつらないのである。精神統一不十分の時は危険であるから勿論行は出来ないし、又剣や火に穢れがあると間違いが起りやすい。
 鎌形の長島一郎氏から借りた名刀を使つた時、刀を踏みかけてどうも気持ちが悪い電気にかゝつたような感じをうけた、後で長島氏にこのことを話すと、それはおそらくこの刀で野犬二頭を切つたことがあるが、それを清めてなかつた為だろうと答えたという。
 又ある時、玉川の田中文治氏の〝村正〟を借りたことがあつたが、流石に抜けば血を見る村正だつた。梯子の昇降中腕を刃の先にぶつつけて怪我をした人があつたという。又ある火渡りの時、火を渡つて内田虎吉氏の庭の東端に達した時、二歩ばかり熱さを感じた。あとで聞くと、そこは肥間のあとで、堆肥をかたづけたあとの汚れが残つていた為だという。
 西沢さんは、小川警察へ二度も呼びつけられ、この神事が人体に危険であり、且つ、人心を惑わすものとして、警告を受けた。又、玉川の巡査部長の臨検もあつたが、部長はこの神事の崇高な空気にうたれ、却つて感心して帰つたという。
 これは世間一般常識の及ばぬ世界である。而して、それが現実に存するのである。

『菅谷村報道』135号「古老に聞く」 1962年(昭和37)7月5日
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