第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
杉山
町の今昔 嵐山町小史(十五)
ごりやくのあった薬師信仰
——主として杉山の三体薬師——
長島喜平
薬師様は、左の手に薬のつぼを持っている。この薬で多くの人々の病気を治してくれるということである。そのため昔は薬師さまを信仰するものが多かった。
薬師さまは、普通、両脇に日光と月光の二菩薩を従え、周辺には巻属として十二神将がとりまいている。
京都や奈良へ行くと、立派な薬師さまを見かけるが、奈良の薬師寺はその代表的典型的なものであると思われる。
嵐山町にも薬師さまを祀った薬師堂がいくつかある。その主なものを次にあげてみよう。(一) 川島の花見堂薬師 地産団地の東にあって、広野広正寺持ちである。この薬師如来像は盗まれ、堂そのものも非常に荒れている。かつては「つんぼ薬師」とか「きかず薬師」と言って耳の悪い人々の信仰をあつめた。
(二) 越畑の安産薬師 これは越畑の宝薬寺持になっていて塚本さんが管理している。安産薬師と言われ、女の方の信仰をあつめ、かつては五人一組になって五人講として栄えた。
またしゃく【癪】にもよく、そのお礼参りに、ひしゃく【柄杓】の底のぬけたものを奉納したものもあったという。さらにこの薬師さまにお参りして気付くことは、お堂の庭に石臼が敷石になっていることである。これは目の治った者や、治るように祈った人達が、石臼に目が刻んであるのに因んで納めたものだと土地の人は言うが、とにかく薬師如来は薬のつぼを持っているのでいろいろの病気の治るように祈ったものであろう。
(三) 上吉田の薬師さま
宗心寺持であり、あらゆる病気の願いをする。年一回九月に縁日として栄えてきた。
(四) 鎌形のやくさま 既に堂はない。ただ土地のものが、堂のあったところを、やくさまと呼んでいるにすぎない。
(五) 杉山の薬師さま 内田家寿先生宅の西にある薬師さまで、目のわるい人の信仰をあつめた。以前はよく「め」と書かれた木札(小型な絵馬)が納めてあったとか。
実は本年(1974)二月十七日に、埼玉県郷土文化会で、嵐山町の七郷地区見学会をおこなった。
この見学会は私が立案したのだが、あまり調査されていない旧七郷地区を、稲村坦元先生に見ていただきたかったのが、大きな理由であった。
その中で、もっとも収穫のあったのは、この杉山の薬師堂の薬師さまである。
新編武蔵風土記稿という本によると、薬師堂について「薬師堂村持」とあるだけである。この薬師堂は、以前、杉山城域にあったという人もある。
このお堂の天井には、墨絵の竜が描かれている(町指定*1)江戸時代の狂歌師元杢網(もとのもくあみ)の作である。杢網は杉山の金子家の出で、現在金子長吉氏家の墓地に墓はあって、県指定史跡となっている。
この薬師堂の中には、薬師さまが三体安置されている。
私が稲村先生に「これは薬師三尊ではないですね、薬師三体ではないですか」と念を押してたずねたら、稲村先生も、「どうも三尊ではない。三体と言ったほうがよかろう」と語っていた。
この三体は、色あせているが、彩色が施こされているので、室町中期頃の作であるという。
小立像でこの地方作であろう。
薬師三尊というのは、前にふれたが、薬師とその脇に日光・月光の菩薩がいる形式をいうが、薬師三体という場合は、三体とも薬師であり、この場合、それぞれ左手に薬壷をもっているのであるがいまは薬壷を持っているのは一体、他の二体は長い年月を経て手もとれ、薬壷も、落ちた手も紛失してしまったのであろう。
顔はなかなかユーモラスであり地方作として貴重な仏像で、民衆の薬師信仰がどうあったかの研究に、一つの型を暗示させてくれる。なおこの薬師さまは、旧九月十一日が縁日で、越畑の薬師さまは十三日とか、続いた縁日はどちらもにぎわったと言うことである。
(県郷土文化会副会長)*1:町指定文化財の意
『嵐山町報道』243号「町の今昔」 1974年(昭和49)11月10日