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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

大山咋命(おおやまいくいのみこと)亦名山末本大神*1

大山咋命ハ元日枝神社ナリ是ハ畠山重忠年十七才ニシテ治承四年(1180)十月武蔵国長井ノ渡シノ頼朝ノ御陣所ニ参シ頼朝公ニ属シテ先鋒ノ将トナリ各地戦争ニ大ニ軍功アツテ此ノ菅谷ノ地ヲ賜リ依テ此ニ新城ヲ築キ居住トナシ武運長久ノ守護神トシテ近江国日吉山ニ鎮座ナス(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此ノ分霊ハ日本国中即チ三府二十三県ノ内五百社之アリ其ノ一社ノ内ノ御分社)日吉山王権現ノ御分霊ヲ畠山重忠請願ニ依リ建久元年(1190)九月十九日ニ奉遷観請ス故ニ日吉山王大権現ト称セシヲ明治四年(1871)神社取調ノ節村社ニ列セラレ社号ヲ日枝神ト改称ス
明治四拾年四月十七日付字本宿無格社稲荷神社字城無格社天神社ノ二社ヲ合祀ノ上社号日枝神社ヲ菅谷神社ト改称ス
昭和五十五年一級社ニ列セラル

*1:「山末本大神」は不明。

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

素盞鳴尊 (すさのおのみこと)

此大神は天明六年丙午年(1786)五月吉日辰日旧幕府地頭猪子佐太郎氏の信仰に基き尾張国海東郡津島町に鎮座の(現今県社)津島牛頭天王宮(つしまごづてんのうぐう)の御分霊を当所字東側現今県道の中央へ*1市神の*2崇敬し三鎮齊し維新までは津島牛頭天王奉称して明治四年(1871)より当所西側境内六坪の地に移転し無格社にせられ社号を八雲神社改称し明治二十三年(1890)当所大火の節旧殿は焼失し仝年七月信徒の寄附金を以て現今の社殿再建し今般神社の崇敬上設備完全を期するため村社菅谷神社境内に移転および社号改正の儀を明治四十年(1907)五月九日付を以て埼玉県知事の御許可を得て社号津島神社と改正の上同年七月拾四日に移転祭執行す

*1:文字は「伊(い)」であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。
*2:「乃」の文字から「の」としたが「市神の崇敬し」では意味不明。

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

市杵島姫大神 (いちきしまひめおおかみ)

抑当神社ハ往古当地ノ者弁才天ヲ信仰シ安芸国佐伯郡*1厳島町ニ鎮座ナス厳島神社ヘ懇願ノ上建久二年(1191)五月二十一日ノ吉辰ヲ以テ当所鎮守山王宮御境内御手洗池中ノ塚ニ末社トシテ御分霊ヲ奉遷シ然ル後変シ王政復古*2維新ノ際遂ニ敷地ノ沼地ハ境内ヲ分裂シ官有第三種ニ編入セラレ共ニ神社ノ名称モ取サレタル始末ニシテ各氏子信徒ハ遺憾極リナク因テ明治四十年(1907)十二月二十五日ヲ以テ沼地六段六歩ヲ現今ノ菅谷神社ノ境内ニ編入ト共ニ神社ノ再興ヲ出願シ仝四十一年(1908)五月二十三日埼玉県指令社収第一五九五号ノ七ヲ以テ境内取拡ゲ境内神社公認ノ件聞届ケラレ茲ニ再挙ヲ成スヲ得タリ因テ記念トシテ其経歴ヲ謹記ス
  明治四拾壱年五月弐拾弐日

*1:「佐郡」を「佐伯郡(さえきぐん)」に訂正。
*2:「往政復古」を「王政復古」と訂正。

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

畠山重忠命

畠山重忠ハ秩父神社ナリ重忠当地ニ新城ヲ築キ居住中農工商悉ク愛撫シ終ニ元久二年(1205)六月二十二日四十才ニシテ武蔵国ニ於二俣川ニ戦死ス農工商ニハ重忠ノ恩徳ヲ感シ承永*1元年六月二十二日戦死ノ日ヲ以テ鎮守ノ末社トシテ其ノ神霊を勧請ス

*1:永承(えいしょう)(1046年5月22日〜1053年2月2日)という年号はあるが、「承永」はないので、「貞永(じょうえい)」(1232年4月23日〜1233年5月25日)と思われる。貞永元年は1232年。

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

保食命(うけもちのみこと)亦名稲倉魂命(うかのみたまのみこと)

此大神は当所本宿に直立壱丈余築塚(此の塚の下は石室)あり其山上畠山重忠大人の鬼門除の農蚕業の守護神として年月日不詳雖然京都府城紀伊郡伏見里深草村稲荷山に鎮座の官幣大社稲荷神社の御分を奉遷観請す本社境内は五畝拾八歩御除地の処明治四年(1871)に無格社に列せらる尚同五年(1872)に境内参拾歩を残し跡は上地官林に引裂れ明治三十七年(1904)六月二十日付をもって特売により四畝拾歩および立木共買受設備完全のために同年三月二十日付を以て村社菅谷神社合祀の儀出願候処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

贈太政大臣正一位 菅原道真公命

此の大神は当所字城畠山重忠大人城跡三の郭に壱丈参尺余の築塚あり其山上へ*1宝暦十二年(1762)九月吉日京都市上京区御前通馬喰町に鎮座官幣中社北野神社(往古は天満大自在天神宮と奉称)の御分霊を奉遷観請す因て天満大自在天神宮と奉称しを明治四年(1871)に至り無格社に列せられ社号天神社と改正す然る処今般神社の設備完全を期して明治四十年(1907)三月二十日付を以て村社菅谷神社へ*1合祀の儀出願の処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す

*1:文字は「伊(い)」であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。

『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より
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