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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

広野

史談

広野八宮神社の沿革

                    宮田珪一郎

 昭和三十二年(1957)九月神社庁より各神社に配布になつた常備書に、神社の由緒(比企郡神社誌に記載)、沿革其他記入致す様、度々話しがあり又古い昔を調べることも興味ある事と思い、神社庁や小川町宮司梅沢亮之助氏を訪問致し又は大字の古い記録簿を拝見致し特に金子慶助氏・宮本竹治氏・宮司能見武一氏等のお力を拝借致しこゝに、鎮座の始貞観(じょうがん)十年(868)から一〇九三年経過した昭和三十六年(1961)迄の沿革を収録した。
 前述のように鎮座されたのは平安初期清和天皇貞観十年の春であり、それより幾百星霜経たる天文(てんぶん)三年(1534)室町時代の末に半歳有余日かゝつて拝殿が作られた(四百二十八年前)。それより三十八年たち元亀(げんき)二年(1571)川越宿藩【?】より名指しで、当所の宮本竹治氏の祖先が鎮守の別当となり又称号に院の許しを得た。
 当時神職の職名も種々で、内人、預、社司、行事、検校、神殿守、棚守、神人、等様々の呼称があつた。
 初代宮本別当より(室町末期)大正九年(1920)九月神官宮本広野氏退任迄十九代実に三百四十年の長きに亘つて神官を続けられた。
 江戸時代の中頃文政初年神主に伯、大副、少副、大祐、権大祐、少祐、権少祐、大吏、権大吏、少吏、権少吏、吏生、官堂手、使部等あつたが宮本神主はいずれの神職名か不明である。
 昔より神主は概ね世襲する由緒ある家柄が常習であつたが、今より九十年前の明治四年(1871)五月太政官布告により廃止された。
 大正九年(1920)九月宮本宮司が退任され、翌月の十月字杉山の杉山俊之助氏が神主に就任された。昭和二年(1927)七月杉山宮司退任、其年の十月伊古能見刀平氏が神主に就任三年経ずして退任、昭和五年(1930)春刀平氏の子息武一氏神主に就任、現在まで三十余年間在職している。
 神社に関する世話役は古い昔より名主と別当が一切受持、明治二年(1869)七月神祇官布告に依り、神社の祭神の仏名を神名に改める様通達があり、同時に戸長が神社の事に一切の世話役となつた。
 初代の戸長権田浪吉氏は万延年間より明治五年(1872)迄在職、ついで永嶋竹次郎氏が戸長に就任、神社の世話役、明治十二年(1879)二月鳥居の大修理を行ない十三年(1880)十一月戸長を井上万吉氏に譲り引続き神社に奉仕された。
 当時氏子は字川島二十八戸を含めて七十六戸、川島の氏子は広野八宮神社秋期大祭を最後に目出度分れる事になつた。時に明治十五年(1882)師走。
 明治二十七年(1894)二月勅令第二十二号に依り神職々制が定められ宮司、神主、禰宜、祝の順を以て上下の別が立てられ氏子に世話役総代が置かれた。時の初代総代は栗原保之丞、井上万吉、永島佐平、永島栄蔵の各氏、時に氏子四十六戸其春大字を灯籠組五組に編成、一組を旧七十六番地を始として八戸、二組は十戸、三組は八戸、四組は九戸、五組は十一戸、こゝに正副を置き外に人別割徴収係を設け神社の行事に当つた。
 明治三十五年(1902)二月十日勅令第二十二号に依り神官は判任官待遇となつた。時に総代は井上万吉、栗原慶次郎、永島伊三郎、永島半蔵の各氏。
 大正七年(1918)国有林二反二畝十五歩を神社所有に登記、時の登記料が四厘不足であつたが昔を偲ぶ面白い話がある。即ち、同年二月二十九日東京大林区署より至急通達状、さきに登記嘱託請求有之候処左記不足ノモノ至急提出可相成此段申進候也。登録税一銭不足銭位未満ノ端数ハ銭位ニ計算スベキ規定。とあつた。当時の貨幣価値を想像するに足るものである。
 大正八年(1919)同地の開墾に着手、大正十一年(1922)七月各灯籠組に耕作させ其小作料二十六円を神社の経費に当てた。
 大正十四年(1925)春、大正天皇銀婚式記念の一環として私が人造石の社票を寄附した。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争起り二十年(1945)八月終戦と共に神社も気の毒な情勢となり収入ある土地も極東軍司令官マツカーサー元帥の命令に従い解放しなければならぬ事態となつた。
 昭和二十五年(1950)一月神社の草葺屋根を瓦葺に改造されるや、それを機会に総代は交代制をとり長らく神社に御奉仕頂いた総代栗原侃一、井上文雄、永島宗平、永島進の各氏が二十六年(1951)三月目出度退任。一寸付加えますが、昭和三年(1928)より六年(1931)頃まで小林左源太氏が総代に就任された。
 昭和二十六年(1951)五ケ年を一期としてここに第一期総代就任、理事宮本竹治、永島一雄、杉田幸吉、大沢庫一、権田近栄の諸氏。神社境内外地を登記し、空地に杉苗を植林、昭和三十一年(1956)三月満期退任。同年四月第二期総代就任、理事杉田幸吉、宮田万造、栗原喜一、宮本一郎の諸氏と私残りの空地に杉苗を植林し、又忘れる事の出来ない菅谷、七郷合併の昭和三十年(1955)四月十五日を記念致しまして桜苗二本鳥居側へ植樹。比企郡内神社誌発行に付、由緒の調査沿革等完全な常備書記入、昭和三十六年(1961)満期退任時に氏子六十戸外に抹消三戸。

『菅谷村報道』133号「史談」 1962年(昭和37)5月15日

広野八宮神社
2003年5月22日撮影

広野八宮神社|写真1

広野八宮神社|写真2

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