第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
嵐山まつり
ふれあい にぎわい わかちあい 嵐山まつりは秋日和
今年で十一回目を迎えた嵐山まつりは当初、県から商工会へ商工祭をするようにという指導があったことから始まったものです。どうせやるなら町の活性化のために町全体の祭りにしたいと、町当局へ働きかけて昭和五十七年(1982)十一月三日第一回が実施されました。現在の農業部会のメンバーのアイデアとも重なり、町・農協・商工会が中心となって、今日まで続いてきました。
統一テーマに「ふれあいで築くみんなの嵐山まつり」を掲げていますが、これは現在もかわりません。
買いものだけでは市場と同様で祭りではありません。ゲームなどに参加して楽しんでもらいたいということから現在のようにさまざまの催しが実施されるようになりました。当初から主会場は菅谷中学校々庭です。会場では各部会の趣向をこらしたテントが校庭にところ狭しとたち並び、花かざりやのぼりの赤や青が秋の陽(ひ)に鮮やかに映えます。いかにも祭りといえる華やかさが、訪れる人たちの気分を盛り上げています。アイデアいっぱい
商工観光部会は、商工会の六事業部と観光協会がそれぞれアイデアを出し合って担当しています。
今年初めて登場したのが青年部のうなぎつかみ大会です。
原価四百五十円のうなぎを百五十匹仕入れての大サービスです。一回一分間で百円。
去年はミニSLが大人気でしたが、今年は部品取替えや点検で解体中のSLにかわって電車が運行されました。
「産湯の清水駅」から発車する電車には子供も大人も一緒に乗りごこちを楽しんでいました。
パターゴルフが始まりました。十メートルほどの円の中心の穴に、六つのゾーンから一人ずつ順にゴルフボールを打ち入れていく競争です。さまになるゴルフ好きのお父さん達に負けずに、小中学生やおじいさんおばあさん、お母さんも頑張って、みんな賞品のお米や箱詰めのインスタントラーメンを抱えて帰っていきました。
建設部は大中小のまな板の販売と無料の包丁の研磨です。
もうおなじみさんがいて九時半の開始時間には三十丁以上の申しこみです。数人のベテランが丁寧につぎつぎと研いでいきます。出来上った二丁の包丁を受けとった八十一歳の中山さんは「ありがとうありがとう」とくり返しお礼を言いながら「老人の一人暮らしだから包丁なんて研げないので、毎年ここで頼むんです。」渋谷から十年前に越して来て、嵐山町がとても気に入っているとお元気な声で話してくれました。
午後から商業部のイベント、ジャンケン大会が始まりました。台の上にはカラーボールの箱と賞品の醤油、ティッシュペーパー、大小のぬいぐるみ、自転車などが並んでいます。
大きなプラカードには、グー*1がピンク、チョキ*1が白、パー*1が青と書かれています。カラーボールを取り出す二人のおじさんの、どちらが勝つか判断し、仕切りのロープの中に入ります。「ジャンケンポン!」。箱の中からとり出されたボールの色で勝負がきまります。
いよいよ最後の景品の自転車となり「わあッー」と歓声がひときわ高くあがり大勢が出て行きます。何度もくり返される、勝って拍手する人、最後の最後で負けてがっかりする子、そんな中で自転車を手にしたのは志賀小六年の青木君でした。羨ましそうな大勢の友だちに囲まれて自転車を押して帰りました。
大人から子供まで多くの人が一緒に楽しめたゲームでした。*1:本来は、グー、チョキ、パーの絵が表示。
サービス満点の老舗
花の苗や種を配布したり、スペアキーを作ってくれるのは環境部会のみなさんです。
一人一箇の制限はあるものの無料のキーは好評で、待つ間もなく出来上ります。午前中に百箇、午後五十箇と盛況でした。机上に置かれた交通遺児援護募金の箱には快く協力する人たちが大勢でした。
当初の嵐山まつりのアイデアを生み出したと言う農業部会の貢献度はいつも大きなものがあります。
農産物、海産物の販売、牛乳の無料配布、ライスワインの試飲会などサービスのコーナーになっています。
恒例になっているもちつき大会と、つきたてのお餅の無料配布も人気の的です。
今年はさらに〝あずき粒あてクイズ〟が加わりました。〝ジャンケン大会〟〝イントロクイズ〟等で優勝者が米三十kgを抱えて大喜びでした。
農産物は三十数品目にもおよび、すべて町内の農業者(野菜直売所の組合員)が一生懸命生産したものです。新鮮で安心してたべられると好評でした。
〝あさり拾い〟や、やぎやうさぎのいる動物広場は子供たちの格好の遊び場となりました。
農業部会は回を重ねるごとに新しいコーナーもふえて、嵐山まつりへの気配りもさすがと感じられました。とんではねて健康測定
体育館は健康部会の会場で賑わっています。
大腸ガンや血圧の検査の呼びかけに応じながら歩を進めると〝長なわとび大会〟の受付に行きあたりました。
子供たちがチームメイトを探しながら七人一組で申し込みに列をつくっています。
体育館の高い天井に子供たちの歓声がひびき、七人の足並みが揃って床に弾みます。長い縄が子供たちの頭上をめぐり「十!十一!十二!…」とみんなの声がだんだん高くなっていきます。幾つものチームが挑戦しては失敗し、なかなか七人の息が合うのはむずかしいようです。歌とおどりと演奏と
実行委員長斉藤弥三郎氏のもと、四十八団体の芸能同好会の中から、民謡、舞踊、カラオケ等が披露されました。
今回はじめての試みとして車輌の舞台が使われました。「どうも屋根が低くてこわいですね」というのは出演者の弁ですが、芸能部会は嵐山まつりの花であることは間違いなさそうです。その中で、今回初めて玉ノ岡中学校の吹奏楽部員の特別演奏がありました。
女子部員十五名による演奏曲は「隣りのトトロ」「シンコペィテットクロック」「ハンガリヤ舞曲第五番」の三曲でした。さわやかな態度、さわやかな制服、そして何よりも磨かれた演奏に聴きほれた多くの観客の拍手は高く、いつまでも続きました。
タクトを振った福島弥生先生は言います。「少しあがったのかしら、思うように伸びませんでした。来年は菅谷中学校をはじめ、多くの学校が参加してくれるといいですね。」の印象的な言葉を胸に演奏した生徒の一人に聞いてみました。「どう、あがらなかった?」「いいえ普通でした。」いざ出陣
時代まつりの実行委員は朝八時半から県立歴史資料館で準備に忙しく立ち働いていました。九時すぎには一般参加者も習合して具足をつけはじめます。中学生の一団は、昨年も参加した先輩の指導で協力しながら立派な足軽の姿に変身していきます。足袋(たび)をはくのが苦労のようでした。
ひときわりりしい女性の足軽に、参加の動機を聞いてみました。「その年の役場の新入職員は足軽として参加する慣例があるので…」ということでした。
鎧武士は専門家がつぎつぎと具足を一つずつつけていきます。武将一人の支度が完成するのに二十分程かかります。具足の素材は実物よりも軽いというものの武将になる人も着付ける方も大変です。
戦国時代の武者は剛健だったのだ、とは現代の武者の一致した感想のようです。
名将の生きたと言われるわが町ならではの時代まつりは貴重な体験学習の場でもあります。
秋色の美しい県立歴史資料館の前庭に、畠山重忠・木曽義仲ののぼりがはためき、ゆかりの武士のおもかげを彷彿(ほうふつ)とさせる出陣式は壮観でした。みんなで支える嵐山まつり
晴天に恵まれた当日、菅中校庭は朝七時半頃から準備に忙しい担当者でにぎやかでした。新しいイベントやゲームを考える人、駐車場や交通整理に当った交通指導員、安全協会、ボーイスカウトの方々。
『嵐山町報道』414号 1992年(平成4)12月1日
味を落とさないために当日午前三時頃に起きて漬け物を袋詰めしたお母さんたち。その他団体やグループ、町内業者の自主的な売り場も目立ちました。大勢の努力で支えられた嵐山まつりです。会場を訪れた人々もこれを支えています。毎年必ず来る人も何人もいます。安全な野菜や食品がほしい人、焼き物や、俳画の絵葉書など嵐山独特のものがほしくて来る人。
親戚を呼んで一家で来る人。久し振りに友だちに会えるのが楽しみで来る人。目的は違ってもみんなが嵐山まつりを毎年待っているのです。
「ふれあいで築くみんなの嵐山まつり」の目的は達成されつつあるようです。