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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

手伝い

 それでは入学時にもどって。
 一年の奉公も終って花の四月。気候も良く気分も大きく成長したようなつもりで登校が始まる。道路は砂利路。しかも曲りくねった狭い所を毎日3キロ以上も往復した。でも当時は余り苦にならなかったように思う。上級生に兄二人が居った事もある。
 四月、五月、農繁期。そろそろ忙しくなる頃となる。少しの田畑といえ、機械がある訳でも無く、総てが人の力と牛馬など利用した程度。しかし私が小さい頃は家には牛馬も居らず全部人の力で耕したのである。ただ田植時の田かき(馬や牛を使って土を細かく砕き、苗の植え易いようにする)仕事は他人を頼んだ。従って出費は大きかった事になる。私が一年生の頃から兄二人は多忙時、猫の手も借りたい時ともなれば、学校から暇(ひま)を貰って来るよう、半ば命令的のようでもあったように思う(後に自分にもその時期が訪れる)。こうした事も実の親なら違っていたのかもしれない。とにかく勉強の方は二の次位しか考えて貰えなかったのである。私も学校から帰れば何やら手伝いさせられたものである。物日(ものび)以外は絶対に遊びに出されないので、奉公人と同じようである。今の子供達の日々はどうだろう。到底考えられもしない事である。
 畑の方はほとんど桑畑で、桑は蚕の飼料である。蚕の出る時期、五月頃からは益々多忙になる。私が小学校に入学した頃から絹織りの方は余りやらなくなり、田畑に力を入れたように思う。しかし農閑期には機織りもした。当時、養蚕が盛んになり、製糸工場も多くあって、繭(まゆ)の売れ行きが良く、農家にとっては最高の収入源でもあった。
 いよいよ、七月、八月ともなれば、今と違って田圃一面は青々として来る。暑い日の田の草取り、年に数回飼育する養蚕、桑畑の草取り等、実際に経験した者でないと解からない事でもある。その頃は田畑に除草剤など使わないため、雷雨で大雨の時など、ウケ(タニシなど入れた篭)を水の流れに置くと、短時間でたくさんのどじょうが捕れた。正に栄養満点のどじょう汁が出来たと云う訳である。
 夏から秋、養蚕の方は一段落するが、米の収穫時期が訪れる。そして米を入れる俵作りと縄(なわ)ない作業。米の売買時に俵装の検査があり、規格に反すると売買が出来ないのである。この作業は時期的に寒い夜の頃となる。
 軍国教科書時代の文部省唱歌の一節
   囲炉裏(いろり)の端に縄なう父は
   過ぎしいくさの手柄を語る
 寒い冬の夜の作業の様子が今も思い出される。しかし実際に自分で縄をなって見ても、なかなか多く出来るものでない。十メートル、二十メートル。これも検査が通るよう努力のいる作業である。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 3頁〜5頁
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