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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

自転車

自転車の普及と自転車税

 開国によって西欧文明が押し寄せると、交通手段も大きく変化し、大八車(だいはちぐるま)、牛車(うしぐるま)、荷馬車、駕篭(かご)から人力車、馬車鉄道、鉄道、自転車への転換がはじまります。それは人々の生活範囲を広げ、情報量を増やし、意識や価値観までも変化させました。
 自転車の始まりは、18世紀末、フランスで二つの車輪をつないで固定し、前輪の上に馬の頭をつけ、後輪の後に尻尾(しっぽ)をつけ、両輪の中間にあるサドルにまたがって地面を足でけって一直線に前進した玩具(おもちゃ)がはじまりだと言われています。19世紀はじめ、ドイツ人のドライス男爵がこれにハンドルをつけ、方向を変えられるように改良して自転車の原型が出来上がりました。
 その後、前輪にペダルがつき(ミショー型)、自転車はこぐものになりましたが、乗り心地が悪く、走るとガタピシ骨身にこたえるので「骨ゆすり(ボーン・シェイカー)」と呼ばれています。日本には明治初頭に欧米の上流社会の愛用車というふれこみで輸入されましたが、早速、「ガタクリ」と渾名(あだな)がつきました。ついで、前輪を大きくしたオーディナリ型自転車が登場します。ペダル一回転で、ぐーんと速く進めるのですが、乗り降りが難しくて危険な自転車でした。これは、日本では、ダルマ自転車と呼ばれます。
 1890年(明治23)、宮田製銃所が、銃づくりの技術を生かしてパイプをくりぬいてフレームを作り、チェイン、ボールベアリング、前後輪同径の空気入りタイヤを付けた現在の自転車と同じセーフティ型自転車を試作しました。
 嵐山町域での自転車の登場は20世紀に入ってからですが、高価で珍しいものだったので床の間に飾って近所の人に見せたりしました。村の人々は二輪なのにどうして倒れないのだろうと不思議に思ったようです。
 1912年(大正元)1月6日付『埼玉新報』に、「パーマータイヤ埼玉県下特約販売店」の広告が載っています。自転車の特約店は、川越、熊谷、粕壁(かすかべ)町など10町に12軒あり、嵐山町域の人々は熊谷町の自転車店で購入したと思われます。
 町域の自転車に関する記録から、菅谷村の自転車保有台数は、1909年に11台、1914年に46台(全戸数611戸、7.5%)、1925年(大正14)には441台(690戸、63%)であったことがわかります。
 千手堂の「高橋金次郎日記」(1914年)には、
八月一四日 父は光照寺(こうしょうじ)へ施餓鬼(せがき)に行く。他の者は自転車の稽古(けいこ)、夕方桑摘(つ)み。
八月一六日 蚕上簇(かいこじょうぞく)、発生より二十二日にて。午後自転車の稽古四、五人。

と記されています。


新型ナイト号広告(1923年)
 上の広告のナイト号の値段は13回の月賦で135円でした。自転車は安くてがっしりとした運搬に使えるものに改良されて普及し、1928年(昭和3)には全国で500万台を突破しました。これは、1920年代に300万台も増えていたことを示しています。
 自転車を持っている人には税金がかかりました。越畑の市川藤三郎の納税証書によれば、1926年(大正15)の自転車税(県税)は8円でした。そこで自転車税廃止運動が起こりましたが、道路破損負担金として徴収は続けられました。1940年(昭和15)には2円程度に減額されています。
 戦後も自転車税は残り、1950年(昭和25)には一台年200円の標準税率となりましたが、徴税事務費用がかさんだため、1958年(昭和33)、荷車税とともに廃止されました。

博物誌だより115(嵐山町広報2004年2月)から作成

「自転車鑑札」の付いてない自転車は、自転車税を払っていないということだったのでしょう。1933年の新聞に次の記事がありました。

春日部投書函

 近頃の粕壁県税務出張所の御役人達と来たらまるでアイスの手代の様な顔付きで往来をキョロキョロ歩き廻って無鑑【無鑑札】の自転車を探してゐるが、あんなにまで職務に忠実?でしたら定めし早く御出世なさるでせう。それに農村の実状を今少し理解を持って頂ける様にはなりでせんか【なりませんか】(北葛の百姓)

『埼玉日報』1933年(昭和8)8月27日
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