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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

菅谷中学校

古老にきく

菅谷中学校校歌
        安藤専一氏—— 小林専治

安藤専一校長が、七中【七郷中学校】から菅中【菅谷中学校】に転じたのが、昭和三十一年(1956)四月。その前年三十年(1955)八月には菅中新校舎三棟が落成し、三十二年(1957)四月には更に一棟増築にとりかゝっている。この頃村の重要施策は新しい教育施設、特に中学校舎の整備に向けられていた。
菅中の外、七中では、三十一年(1956)一月から約一ケ年、三十二年(1957)二月に新校舎四三七坪が完成している。
斯くして、昭和二十二年(1947)新制中学発足以来の懸案であった新校舎建設は略〃(ほぼ)この時代に完了を見たのである。このように学校の形は一応整ったもののこの新しい学舎には、まだ学徒の魂に培うべき、醇美なる校風や、高い理想が建成されるに至っていなかった。それで父祖の伝へた古い歴史や伝統に導かれ、郷党の美しい山河に馴致された奥床しい校風の樹立こそ現下の急務と考えられていたのである。新校舎の庭に立った新校長は、この校風と理想を、校歌によって歌い上げようと決意したのであった。
時のPTAは会長田幡順一氏、副会長岡村定吉氏であった。校長はこのPTAの役員に諮り、PTAの事業として、校歌制定のことを始めたのである。一月のことである。先ず歌詞を村民一般から募集した。締切当日の二十日には、数篇の応募作品が集った。
選考委員はPTA役員がこれに当たった。投票の点数により第一位より第四位までを一応入選とし、その中から更に一篇を選んで、正式に校歌として採用することとして、その選定を教育委員会に仰いだ。入選者は、第一位安藤専一、第二位小林荘治、第三位柳生正子、第四位小林荘治の三氏である。
時の教育委員は、根岸忠興、金子慶助、小林忠一、安藤義雄、長島実の五氏。委員会では、学校の要請により入選作を検討したが、根岸委員長は、委員に諮り更に之を、然る可き権威者に依頼し、補作並に決定を煩はすべき議をまとめ、これを農士学校創始者として、本村に縁故の深い安岡正篤氏に懇請することとした。その時兼任教育長をしていた筆者が命ぜられてその使者に当ったのである。
東京大手町世界経済会館内全国師友協会の一室で入選四篇のガリバン版刷りを読み乍ら、先生は熱心に筆を加えられた。
「矢張りこれが一番いゝようだ」と言はれて一位の安藤校長の作品をなおしていかれたが、その結果、(一)の第五句「真理のあとを慕うなる」を「真理の道を進みゆく」と正され、(二)の第二句の「平和の空は遙けくも」を「平和の空は遙けきも」とし、第六句の「われらが夢」を「われらが郷」となおされた。さて、(三)であるが、(一)が「学舎」(二)が「郷」(三)は当然「国」が来なければならない。先生は暫く考えておられたが、第二位の小林荘治君の(一)に筆を加えられた。
小林君のものは
「大空に
 のぼる朝日の姿こそ
 菅中校舎の象徴なり
 明るく清く勇ましく
 のびゆく生徒を育てゆく
   輝く 菅谷中学校」
が原文であった。これが現在のように、
 澄みわたりたる大空に
 のぼる朝の姿こそ
 われらが学舎の象徴なれ
 明るく清くつつましく
 励む師弟の姿こそ
 我等が祖国の誇なれ
の形になったのである。これにより学舎から郷土、郷土から祖国へと、中学生の理想を追求の姿がここに鮮かに浮び出たのである。
斯うして出来上った校歌は川高【川越高等学校】教諭、牧野統氏の作曲により、昭和三十二年(1957)六月三十日、正式に菅中校歌として、制定を見るに至ったのである。
安藤校長を古老に擬するは当らないと思ふが、「安藤専一作詞、安岡正篤監修」と註されている菅中校歌の成立について、その経緯を知るものが案外に少い。
四月二十八日、日曜日の午前、今日は人影の全くない庁舎内で偶々訪れた中島運竝(うんぺい)君と四方山(よもやま)ばなしをしている中、話題が、菅小【菅谷小学校】の国旗掲揚塔、門柱などから菅中校歌にうつり校歌制定の由来についてその実情を知るものの意外に少いことを説かれ、急に思い立ってこの稿を草した。
菅中校歌を語るには、安藤校長を措いて他に人はない。それで、些か附会の恨を免れないが、安藤校長に、古老として、御登場願った次第である。

『菅谷村報道』143号「古老にきく」 1963年(昭和38)5月20日
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