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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

菅谷小学校

【表紙】
ただ見たこと、聞いたこと、思ったこと、したことを、そのままに、かざらず、いつはらず綴る。それが綴方の上手になる第一歩

巻のはじめに

乞食(こじき)の子でも三年たてば三つとやら、それはどうでも好いが、兎に角この文集も今度で三度目、それで三つの辰歳(たつどし)を迎へた。

大きくなる程智恵(ちゑ)がついて行く。それは当然(たうぜん)のこと、この文集も亦生れた時にくらべて、どの位迄に皆の綴方が進歩してゐるか、それは第一号と比較して見ればすぐわかる。上手になるのは先生も皆も共に希(こひねが)ふところ。

落葉(おちば)した梢(こずゑ)の空をはらふあたり、凩(こがらし)の音に思はず襟元(えりもと)ちぢめる夕べにも、凛(りん)として松の操(みさを)を保つが如くあらねばならぬ。霜柱(しもばしら)しげく立つ野辺(のべ)に、吐(は)く息(いき)真白(ましろ)なる朝にも、弱い意気地(いくぢ)ない心を起こしてはならぬ。−而も見よ、輝(かかがや)く日の光に、さえづり歌ふ雀(すずめ)の声(こえ)に、新しい年には、すがすがとした春ののほひが、みなぎってゐるではないか。

今度は巻末(くわんまつ)に、別に「他山(たざん)の石(いし)」として、全国小学校児童綴方成績を、尋二から高二まで、各一篇(ぺん)づつ載(の)せて見た。よく読み、よく味(あぢは)って見なさい。
   新しい大正五年の一月に

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

となりのうちのねこ 小川昌伍(尋二)

となりのうちのねこのなは、みけといひます。けいろは、あかいところとしろいところとです。それでとなりの人がゐないときは、私がごはんをくれてやります。
私はそのみけをだいじにしますから、よるはよく私のうちへきます。そしてみけがなくと、いたづらのねずみはだまってしまひます。あさおきて見ると、みけが私のねどこの中へはいって、まるくなってねてゐます。
それからがくかうへともだちとくると、あとをついてきますから、うちへかへれといふと、かへります。みけはほんとにかはいいねこです。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

私のうちのにはとり 岩田博子(尋二)

私のうちには、にはとりが二ひきゐます。一ぴきはおんどりで、一ぴきはめんどりです。このあひだまでは、毎日毎日たまごをよくうみましたが、このごろはめったにうみません。
おんどりはあさはやく目をさまして、ときをつくります。そうすると、うちぢうのものが目をさまします。それからねえさんがさきへおきて、とをあけます。すると、すこしたつととやからおります。そしてにはへでて、おもしろさうにあそびます。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

しゃうじきなでっち 福島ツネ(尋二)

まつやまのたんものやへ、しゃうじきのでっちがいきました。
ある時、おきゃくがきたので、しゅ人が、あそこの大正じまをおきゃくに見せなといひました。そのたんものにきずがあったので、でっちはそれをおきゃくに知らせました。おきゃくは、かはずにかへりました。あとでしゅ人はでっちをしかって、とうとうひまをだしました。それででっちは、おとうさんとあやまりにきました。けれども、しゅ人はかんべんしませんので、こんどは小川のごふくやへいきました。こんどのしゅ人は、しゃうじきであるといって、たいさうだいじにしました。しまひにこのでっちは、りっぱな人になりました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

かけくら 内田眞平(尋二)

このあひだ、二年せいは、三年せいのものと一しょにかけくらをしました。三年の方がさきにかけました。
二年のかけるときは、ふくしませんせいがふえをぴっとふきました。それから、一どうがどっとかけだしました。
私はかはらへいったのは、六ばんめでした。かけくらがすんでから、かはらですまふをとりました。たいさうをかしうございました。それからせんせいが、あの山でべんとうをたべなさいといひました。山へのぼってべんたうをたべましたら、たいさううまうございました。山から方方がきれいに見えました。それから山を下りて、がくかうへかへりました。
     菅谷第一尋

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

アサノコト 権田はつ(尋二)

私ハアサオキルト、スグニヰドバタヘイッテ、カホヲアラヒマス。コノゴロハサムイカラ、イツモコホリガハッテヰテ、ツメタウゴザイマス。ソレカラオヒバチデアタッテ、ザシキヲハイテ、ソシテゴハンヲタベマス。ソレカラ、オニモツヲツツンデ、チヨサンヤカメサンヤソノホカノオトモダチト、オモシロイハナシヲシナガラガクカウヘキマス。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬の朝 水野連次(尋二)

けさ早くおきて見たら、今までにない大じもでした。それからかほをあらって方方を見たら、私のうちのうめの木に、すずめが三ばほど、いかにもさむさうにちぢまっていました。又、にはとりがさむさうにくはばたけにゐました。それから私はあさめしをたべてから、にもつをもって、おべんたうをさげて、駒下駄をはいて、二三人の友だちと学校へ出かけました。学校に来て、すこしあそんでゐるうちに、かねがなりました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

はたぎゃうれつ 関根たま(尋二)

さきの土曜日のあさのことでした。早くおきて見ると、日本晴のよい天気でございました。私はよろこんで顔をあらって、かみをゆって、朝めしをたべてから学校に来るしたくをしました。それから学校へまゐりまして、門をはいると、みなさんが、はたを一本づつ持ってゐて、まことにきれいでございました。
それから学校のにはにあつまって、先生の行く方へ行きました。平沢に行くと、きくの花が見ごとに咲いてゐたので、友だちと一しょに「美しい花ですね。」とほめました。それからちんじゅ様に行って、紙とおだんごとをいただいて、ばんざいをとなへてから、志賀のちんじゅ様で、またばんざいをとなへて、学校へかへりました。それから家にかへりました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

かへってから 小林貞次郎(尋二)

きのふ私はくづぎはきにいって、たくさんはいてきました。かへってから、金平さんのうちに遊びに行きました。それからかへって、ゐろりに火をもしてあたって、夕めしをたべてからゆにはいりました。でてからは本を読んで、八時ころ眠りました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

いもほり 中島はる(尋二)

昨日私は学校からかへって、ねえさんと一しょにいもほりに行きました。私はくわを、ねえさんはまんのうとざるをもって行きました。ほって見ると、大そう大きなのが出てきましたから、おもしろくてたまりませんでした。しかし、ざるに今少しでほりきるじぶんになると、私はくたびれてしまったので、ねえさんのほうのを入れました。それでざるに一ぱいになりましたから、私はいもを持ってかへりました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

稲 西沢マサ(尋二)

私は稲です。八十八夜になはしろにまかれて、めを出しましたが、だんだんのびて三、四寸になりました。その時、よその田にうゑられて、おいしいごちそうをたくさんたべてゐましたので、私は大そうふとって、丈も四尺ほどになりました。その中に頭が重くなりましたので、ねてゐますと、学校のこどもたちが「りっぱないねだね。」といいては、【不明】りました。また、百しょうが来て、「【不明】は豊年だ」と申しました。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

私のつぼには 瀬山三郎(尋三)

私のつぼにはには、草花がたくさん咲いていました。この頃の寒さで、このあひだ迄咲きみだれてをったコスモスは、しものためにみなかれてしまひました。私はそれを見るとかわいさうでたまりません。またこのあひだまで見ごとに咲いてゐたさざんくわも、もうちってしまって、このごろは大さうさびしくなりました。
     菅谷第一尋常高等小学校『児童文集』第3号

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

取り入れ 高橋甚右衛門(尋三)

このごろはよい天気ですから、人が大ぜい出て、稲かりをしてゐます。かった稲を車や馬につける人、稲を地面に広げたりかはかしたりする人で、あちらでもこちらでも大そうにぎやかです。又かった稲を稲こきで、もみをおとす人、そのもみをすりうすですってもみをはなす人でどこのうちでも、朝から夜おそくまで、すりうすひきで、夜も十分に眠れないやうです。かういふに働いて、たくさん出来た俵をつみかさねて見るのは、大そう見事です。
     菅谷第一尋常高等小学校

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

このごろの朝 清水重平(尋三)

さむいさむいこのごろの朝は、よくしもばかりふって、人のはくいきはすぐに、白くこほってしまひます。毎日北風ばかり吹いて、さむくてたまりません。私どもは学校に来てゐますから、すこしぐらゐ風が吹いてもさむがりません。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

火 内田由五郎(尋四)

火は私どもにはごく大切な物で、一日でもなくてはならないものであります。朝晩の食物のにたきから、種々の工業まで、火の力をからねばならないのは数へきれない程多くあります。大きな機械を動かすにも、汽車や汽船を走らせるのにも、皆この火の力によることが多いのです。私どもはこのごろのやうに寒い時に、この火によってあたたまるのです。火はこの通り、必要な物で、この火がないと生きてゐることが出来ません。けれども、この火はまた大へん恐ろしいもので、平生の取扱によほど気をつけなければなりません。若しそまつしやうものなら、たちまち火事をおこして、りっぱな大きな家も、木も草も皆灰になり、時には人の命までも取られてしまうことがあります。こんな恐ろしい火事の元をしらべて見ますと、多くはらんぷの火か煙草のすひがらか、火ばちの火であります。ことに煙草のすひがらが火事になったためしは少くないのです。小さな火でも気をつけなければなりません。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

我が教室 根岸はな(尋四)

私どもの毎日勉強する教室は、この学校の中ほどであります。間口が六間、奥行が三間あるが、そのうちへ堂のしゅみだんや職員室の戸だななどがつき出てゐるから、よほどせまくなってゐます。前には黒板や教だんやていぶるがあって、これに向って我ら四十四人の二十二きゃくの机は三かはにならべてあります。室の内はさしばなや地図や、そのほかの絵などでかざられてあります。しかし向きがわるいから、冬の日のみじかい時などには、日の目を見ることがなく、ゆかいたのすき目や、障子のたてつけから吹きこむ秩父おろしのために、手足ののびない様なことさへあります。また夏の長い日には後からてりこまれて、せ中のこげる様なことがあります。ほかの暖いあかるい教室にくらべるとよくないやうですが、あついにもさむいにもがまんの出来るからだでなければならないと聞いてゐますから、からだを丈夫にきたえて、この楽しい教室で一しょうけんめいに勉強して、よいせいせきをえたいと思ひます。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

朝ねの損 内田いん(尋四)

朝早く起きてよい空気をすふと元気がつきます。その元気で働けば、段々家が盛になります。それとはんたいに朝ねをすると、元気よく仕事が出来ません。又下男や下女までがなまけたりわるいことをしたりするやうになりますから、その家がだんだんおとろへます。昔西洋のある農夫は、朝ねをして財産をへらしましたが、友だちのおかげで気がついて、それから早く起きるやうになったので、又財産を取返しました。朝ねをして損をせぬうちに、朝起のくせをつけて、元気よく働らかなければなりません。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

入口のつくろひ 欠川金五郎(尋四)

我が教室の入口は大へんにひくくて、雨の時には屋根の水がおちてたまって、出入に困ってゐました。今朝先生から「今日は休みに入口のつくろひをしなさい。」とお話がありましたから、我が四学年の者は、休々に前にはにころがってゐる大きい石を拾ひ集めて、先生のさしづ通り、つんだりしいたりしたので、わづかの間で出来上りました。そこで皆集って、「きれいになった。よかった。」と話合ってゐると、小川先生も「大そうよく出来た」とおほめになりました。この時、根岸先生がらう下をお通りになって、「まあよいこと。私の方でもしたいものです。」とうらやましげにお言ひになりました。そこで私は、大ぜいが同じ心になって力を合せてやりさへすれば、何事も出来ない事はないと思ひました。
     菅谷第一尋常高

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

運動会 関口ふく(尋四)

十一月十二日に、我が学校では御大礼奉祝のために記念大運動会を開いて、午前九時から午後四時まで遊戯や体操や、いろいろのきゃうぎなどをしました。我が四年生は、一番先に友おひ競争をしました。私はかめさんとくんで、三番になってほうびをもらひました。其の時には大そうゆくわいでありました。其の次にはかけくらで、今度は六番目、私は大そう残念に思ひました。その次のめくらのあれいひらひには、五番目に着きました。次にはめじしんぼーるで、私は後列でありましたが一心にやったかひもなくまけて大笑に笑はれました。終には三年生と一しょに合同体操をしました。其の時には、皆よくそろったと見物人にほめられました。それからばんざいをとなひて、めでたく家へかへりました。私はこれからおこたらず運動して、よいからだになって、十分に勉強したいと思ひます。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

大運動会 岩田柳治(尋五)

大正四年の秋も半ばの十一月十二日、御即位式を祝ふため、我が学校では大運動会を行った。
日頃きたへたからだをためすのは今日と、いつも朝ねの僕も、今朝にかぎって早く起きられたで、すぐ雨戸をあけて見れば、日本晴の上天気で、いつしか太陽は東の空を赤らめた。
僕はおかあさんにこしらへてもらったべんたうをもって家を飛出ると元蔵さんが待って居たから、二人で急いで学校に来た。運動場にはたれもたれもみな勇み立って、かけてあるいてゐる。間もなく集れのかねがなって、校長先生からいろいろお話を聞き、一しょに君が代を歌って、始まる合図があったから僕等の席についた。
もう三年の男がかけ出した。みな今日は、いつもより早いやうだ。一番面白かったのは蛙競争であった。其のはって来るのは、ちゃうど犬の子がはって来るやうであった。其の中に僕等の級の四百米競争が始まった。僕は第三組で出発点に立った。笛が鳴ったので一目散にかけ出した。一まわり二まわり決勝点めがけて飛びこんだ。私の手には一等の旗が渡されて、校長先生の前に行った。その時は全くうれしかった。
楽しい面白いうちに、皆元気で運動をして、五年以上も合同体操をして家にかへった。ゆふべは雨かと思った空もよく晴れて、楽しく目出度い運動会が出来たのは全くうれしい。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

紅梅内侍 小林なつ(尋五)

平安時代には名高い歌よみが沢山出ましたが、紅梅内侍も其の中の一人で、紀貫之の女(むすめ)だといふことであります。或年(あるとし)村上天皇が大切にしてお出になった紅梅が枯れましたので、天皇は大そうお惜しみになって、けらいに、「これに劣らぬ様な紅梅を見つけて来い。」と仰せになりました。けらいのものは都中をたづねたけれども、中々見つかりませんでした。或日のこと、風によってよい紅梅のかほりがして来ました。そこでよいにほひのする方へとたづねて行くと、小じんまりした家の庭に、よい紅梅が今をさかりと咲いてゐましたから、けらいの者は「天皇の仰せであるから、どうぞこの紅梅をくれてもらひたい。」といふと、その家にゐた女はすぐに「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はととはばいかがこたへん」*1と書いてお出しになったから、それを天皇にお見せになりますと天皇は、大そうわるいことをしたと、二たびとりにやりませんでした。

*1:「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」…勅命ならば有難いことですが、鶯が来て私の宿はどこへ行ってしまったのですかと尋ねられたら、何と答えてよいのでしょう

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬が来た 高崎のぶ(尋五)

雨戸を明けると、雪かとまがふやうな霜がむすんでゐる。明烏が風に吹かれながら、東の空をさして飛んで行く。幾重かの山をへだてて日光山がわたをかぶったやうに、はや真白な雪をいただいて潔(いさぎよ)く立ってゐる。近くの山の木は木枯(こがらし)に吹きさらされて、ぼうばかりになって、如何にもさびしさうだ。田には切株ばかり。忙がしかった秋も知らぬ顔だ。畑にはもう三寸程にのびた麦、ねぎや大根が活々(いきいき)として、如何にもそこばかり冬を知らないやうに思はれる。たちまち身を切るやうな赤城颪(おろし)がさっと吹いて来た。道を通る人々は、お互に「お寒う御座います。」といって過ぎる。家の者は朝飯の仕度を急いでゐる。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

城址に立ちて 齊藤虔治(尋五)

私は今、関東武士として名も実もあった畠山重忠の城址に立ってゐる。短い日足は、一歩一歩秩父山に近づく。はだを通す様な木枯は、ひうひうと面をなでる。日光・富士のいただきは、はや真白に変った。山王の森のこんもりと茂った中の、古い御神木の枝に、烏が沢山集って物さびしさうに鳴いてゐる。
本丸のあとの麦がもう二寸程にも伸びて、お堀のへりの日当りの好いところに、菜や大根が青々としてゐて、ここばかりは冬を知らないやうだ。
秩父山の奥から流れて来る都幾川の水はごうごうと静な空気をふるはしてゐる。
山から出て来た狩人は、赤犬を連れて又山道をたどって行った。しばらくすると、「ずどん。」「ずどん。」と二発つづけざまに銃の音がした。すると御神木の烏は、一度にばっと飛立って、入らんとする太陽を追った。銃の音は、山びことなって彼方にもひびいた。
またも木枯は吹きすさんで来た。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬の朝 根岸てる(尋五)

太陽の光がぱっとすき間から、ねてゐる床の上にさした。私は急いで床をななれて外へ出ると、真白に霜が結んでゐる。烏は東の方へ鳴きながら飛んで行く。庭の梅の木から雀がぱっと飛立って、どこへか逃げて行った。身を切るやうな木枯の風は、ぴうぴうとあたりの木の葉を吹き散らしてゐる。
前の池には氷が一寸程はってゐる。その氷をやうやう石でこはして手水鉢にくんで、顔を洗ってすこしおくと、またうす氷がはってしまった。
ねえさんが、井戸から水をくんで来ておくと、もうそれにもうす氷がはって、そこらあたりにこぼれた水も、ぢきに白くなってしまう。あたりの木はみな枯れてしまったのに、ばらばかりは活々(いきいき)とした花を咲かせて、ほかの花木をうらやませてゐる。畑に残された菜は、青々とうねをかざってゐる。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

朝飯まで 関根長倭(尋五)

一思ひにはね起き、雨戸を開けて裏へ出た。身にしみるつめたい空気は、着物を通して、心まで寒い。土地は一面に霜のおほはれてゐる。大方は木枯のために枯野となった。中に潔く咲いてゐる寒菊、いやに赤い南天の実、畑に青々とうねをかざってゐる菜や大根、それと隣あって、もう一二寸程にのびた麦、こればかりは冬を知らない様である。田に添ふて流れてゐる小川の水は冬に入っていよいよ清い。
四方の連山は朝霧に立ちこめられてゐる。関東平野に連なる秩父の山々も、冬枯の色を見せてゐる。都幾川の水音も静な中にがうがうと物さびしい。
あそこの森、ここの林にとまってゐる烏は、この寒に身をちぢめてゐる。落葉した林にとまってゐる雀は、ふくらんでゐたが、人の足音に驚いて、彼方の森さして逃げて行った。人も身をちぢめて、「お寒うお寒う。」と白い息を吹きながら通る。さっと来た木枯の風は、木の葉をまいて、あちらの岡へもって行った。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

御大礼雑記 高齢者の光栄 村田卯太郎(尋六)

大正の有難い御代、千載一遇の御即位御大典に逢ふことの出来たのは、私どもの最も幸福なことと思ふ。十日の祝賀式や十二日の奉祝運動会、十五、十六両日の奉祝展覧会など、或は旗行列の各神社巡拜に至るまで、誠心、誠意を以てお祝ひ申上たが、私どもが目のあたり、「ああ皇恩の忝(かたじけ)ないことよ。」と深く感じたのは、彼の高齢者に御下賜なされた深い御恵の御品である。
畏(かしこ)くも天皇陛下には、今回のおよろこびを普(あまね)く下々に分ちたいとの大御心から、全国八十歳以上の高齢者に対して、それぞれ御杯及び酒肴料を下されたが、その数は全国で三十万人余、わが菅谷村でも二十八人の多い数に達した。私の友の高橋君の祖父さんは、文政八年(1825)の生れで今年九十一、村中一番の高齢者と聞いた。文政八年といへば、幕府が外国船撃攘の令を下した年だ。その時分のことを今から考へたらまるで夢の様であらう。そして、今日の大御代に天恩の有難さがしみじみと思はれるだらう。十日、村役場に於て天杯拝受の式の行はれた時、高齢者達は皆感極まって涙を流さないものはなかったといふ。
その後学校の掲示板に、高齢者の御杯を戴いてゐる絵と「老のほまれ。」といふ歌の示されてあるのを見て、私は一層強く感じた。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

秋の宵(短章) 西島善治(尋六)

裏の木小屋から母の衣打つ音がする。豚小屋の前のかまどで、ぱちんぱちんとはねるものがある。それは味噌豆たく竹の音である。「ああ清らかなしづかな秋の宵。」と考へながら、私は母の来るのを待った。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

むし 村田義助(尋六)

露を宿した秋草を分けながら山へ行って見ると、萩の根元に蟲の鳴く声が聞える。私はそのそばに立って耳をすました。最早、足音におどろいたのか、美しいその音ははたと絶えてしまった。するとまた彼方の草の中から、松蟲が涼しい音に鳴きはじめた。すると丁度その時吹いて来た静な風は、玉なす露を宿した萩の小枝をゆすって、あれよ惜しいと思ふ間に、その美しい露は、草の間にくづれ落ちた。松の木の根元でも、すきとほるやうな涼しい音を出して、鈴蟲が鳴いてゐる。
ああ秋よ、秋のゆふべの草むらよ。またその中に鳴く蟲の心よ。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

我が家を包んだ冬 奥平政次(尋六)

戸の隙間からは、もう光線がさし込んでゐる。ふと驚いた様な気持で眼を開いて見ると、まだ何となく眠い様な心持で、いやにまぼしい。寝床でしばらくむづむづしてゐたが、やがて床を離れて雨戸を開いた。と同時に、身を切る様な木枯がすさんで来た。月はまだ紅葉の蔭に残ってゐて、それがちらりと目に寫った。もう近所の乙女子は籠と熊手とを持って、細道傳へに谷の方へと消えて行く。東の空に赤雲が棚引いて来た。雀は箒の様になって突立ってゐる。霜はそこら一面に下りて、木枯は尚もすさんでゐた。百舌は木葉床の上にのり出した樫の木の上に、尾を左右に振って、しきりに雀を尋ねている。裏の柿の木に熟柿が獨り、山颪の風に吹きさらされて、深紅の色を誇ってゐる。前を眺めると、田面にはもう稲株ばかり、案山子の骨も残ってゐない。裏の植木鉢には、烏瓜(からすうり)が美事に下ってゐるのが、一入(ひとしお)目立って見える。どこも皆、さびしい冬の色にかはってしまった。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

この頃の朝 根岸たき(尋六)

冬もやうやう深くなって、十二月も半ばを過ぎやうとしてゐる。寒いのも無理はない、朝、学校へ往復する道は一面に霜柱が立ち、少し遅い朝など、霜で凍ってゐたのが、じくじくと解けて、草履では歩けないやうになる。
朝眼がさめてからも、起きるのは何となく苦労で、一思ひに床をはなれる迄には、いく度も考へることがある。顔を洗ひに行くと手水鉢の水は、堅く氷にとざされて、水がどの位あったのか分らない。水をくんでかけると、それが少しくみしみしとする音ばかり。山にはいつといはず木の葉がかさかさと思ひ出したやうに落ちる。朝、家を出て学校へ来てから、書取の練習などしやうとしても、手が冷たくて書けない。この頃の寒さといったら一通りではない。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬のひと朝 内田亀吉(尋六)

余り寒いためか、見てゐた夢がさめた。もう県道の方に、若者が空歌を歌ひながら通る。私はそれを聞いて、やっとのこと起出して見た。彼等は山へ落葉掃きに行くのである。あたりは霜で真白。その中に烏が五、六羽飛んで来たが、間もなく、うそ寒い声を残して、どこにか消えてしまった。
自然と東の方に、赤い雲がたなびいて来た。隣の家の梅の木に、雀がさびしさうに、二、三羽、しきりにちゅうちゅうと友達をよんでゐる。
月はまだぼんやりと白く、空の一隅に残ってゐる。私の坪庭には、ばらの花がただ二輪ばかり咲いてゐて、此の冬を唯一人かざってゐる。先に通った若者は、もう山から帰って来る。太陽はまだ上らない。
余り寒いから、家に入って落葉でもたいてあたらう。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

年賀状 内田勇太郎(尋六)

新らしい年を
  お祝ひ申上げます
    辰の元旦

 日のいろの
   はれて新らし
      今朝の空 勇

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

寒月 岩田芳助(高一)

「大原や蝶も出て舞ふおぼろ月」の頃も、櫻花散ると共に飛矢とすぎ、今日この頃はさえ渡る寒月の時期である。今しも墨絵の様にあざやかな冬木立の真上に出た寒月は、吹き来る北風の木立にあたるピューピューといふ音と共に一入(ひとしお)我が身にしみ入る。
青白い月光は静な我が村を照らしてゐる。この時彼方から二聲三聲、さびしげな聲で鳴きつつ飛来った青鷺は、この月光をかすめて向ふの黒いぼんやりした森の方に、その姿をかくした。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

楽業 根岸よし(高一)

人には皆職業といふものがある。その職業を本分として、それに習熟しなければならない。私の職は今は学校で勉強することで、それが真の本務である。而し、爾後卒業してからは家の仕来りの農業が私の本務となる。私はこの農業を第一に好む。
農業は各職業中一番大切な職業である。又最も安楽・愉快な業である。毎日毎日、鍬・鎌を手にして、畑に面白く仕事に行く。四季いづれの時でも楽しくない日はない。時には四方の山々の景色を見、時には百花満開の草木を見る。その道中と通る。その時は花に心を奪はれて、何の気もなく考もない。農業はたのしい遊の様に思はれるが、また辛苦の時もある。夏の暑い日中、汗水を流して働いてゐる時などは、実に苦しいであらう。であるが、未(ゆくすえ)の安楽が知れてゐるのだから、また苦しい中にも楽しい。秋に至って、稲穂が黄色に実って重さうに頭を下げてゐるのを刈取って米にこなして俵につめて、家内の者が笑顔をしてゐる時には、暑さ辛苦も忘れ【不明】農業はこの様に楽しく面白い【職業カ】である。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

小川に遊ぶ 内田茂一(高一)

山を見れば川を思ひ、川に行けば山を思ふ様に、山と川とが相俟って始めて、あの美しい山水が出来るのである。而し川は山がなくとも、よくその美を発揮してゐる。清らかな小川のほとりで、水を眺めてゐると、如何に曇った精神も、知らず識らずの間に爽快となる。低地に止り、傾斜地に行けば、サラサラと小波を立てて流れ、其の度毎に、砂利を流したり、水の間に間に水草を漂はせたり、またコロコロと小石を流したりする。この面白さ、ああ私はこの面白い小川を最も愛する。あおの金波萬里の海よりも、あの高き山よりも。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

秋と小川 高森加野(高一)

春・夏・秋・冬の別、その中でも秋が一番好い。秋の水は清らかであるからして、殊(こと)に小川で遊ぶのは好いものである。日の光によってその小川の水は、金波の如くあざやかである。小さい草はひらひらと、ゆるやかにゆられてゐる。砂鐵はころころと流れて行く。水の音はちょろちょろとして聞える。その時は全く何のことも、すっかりと忘れてしまう。ああ面白い小川の遊。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬の野山 石根丑造(高一)

春花秋紅の候もいつしか過去って、最早四方の山々は、大抵雪をいだき、冬枯の間を點綴する。常盤木もさも寒さうにつき立ってゐる。又落ち残りの葉は、木枯の為に、ひらひらとさも淋しさうに見え、その間に、籠を背負った乙女等二、三人。歌ふ唱歌も何となく今の哀れさを表して、自然野山は寂とする。あゝ自然の変化は、次第次第に吾々の心を変ずるものである。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

歳の暮 関根清一(高二)

「光陰は矢の如し」とか、花を眺めし春、清談に耽りし夏、月を賞せし秋も過ぎて、北風吹き歳の暮とはなりぬ。一年三百六十五日は夢の如く過ぎて、余は何のなすところもなかりき。歳末に及んで過去を顧みれば、一として話の種ならざるはなく、喜悲交々、萬感胸に迫りて、唯茫然とするのみ。
ややありて余は覚醒せり。嗚呼、余は徒に過去を追懐しつつあるべからず。いつか余の将来には、太陽の如く輝ける舞台あるべし。「青年重ねて来らず。時に及んで當に勉勵すべし」とは古人の格言なり。余は歳末に及んでこの格言の一層適切なるを感ぜずんばあらず。行け古き年、来れ新しき春よ。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

冬の朝 権田千代(高二)

或る朝ふと眼をさまして見ると、はやうす明るくなってゐるので、急いで起き、戸をあけて外を見た。すると月はまだ青白く残ってゐてさも寒さうに庭にうつってゐた。冷たい水で顔を洗ひ、御飯の仕度に取りかかった。間もなく御飯も汁も煮えたから、家中揃って朝飯をたべ、掃除をすまして学校へ行く仕度をした。すると、さも寒さうに霜をふんで、尋常二年の子供が私を誘ひに来た。友達と一緒に家を出た。あたりの畑は、皆霜のために真白になってゐる。道端の枯木には烏が二、三羽、しきりに餌をあさってゐる。又山々の木の葉は大方は散りはてて、遠くまですき通って見える。
私たちが、いろいろな話をしながら学校に来た頃は、太陽はもう高く上ってゐた。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

体操科 小林徳太郎(高二)

吾々は常に意を体育に用ひて、盛に体操をする。この主目的は身体を強健にすることにあるが、副目的は精神を爽快にすることにあるので、例をとって見れば、大なる苦痛を持ってゐる時に、体操を盛にやれば苦痛変じて和楽となる。この様に精神は爽快になり、身体各部の均一発達ともなる。他の運動に至っては、このやうな心身鍛練の出来るものはない。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

運動後の精神界(高二) 大澤シン

吾等は常に運動す。鬼ごと・毬投(まりなげ)・お手玉等是皆運動の範囲なり。然れども、是等の運動は身体一部の運動のみにて、各部均一の運動といふこと能はず。されば是等を如何によくなせりと雖も、その割合に精神界に及ぼす爽快は少なかるべし。これに反して吾等のなす体操は、各部筋肉を均一に発達せしめ身体の平均を保つこと甚大なり。されば運動後の精神界の爽快なること到底筆舌の盡(つく)すところに非ず。如何に憂懼*1に沈める時と雖も一度この体操をなす時は自ら精神は爽快となり、自然に憂懼消え去るなり。これによりても、体操の精神に及ぼす効果は推察するに余りあり。
嗚呼愉快なるは運動後の精神界なり。

*1:憂懼(ゆうく)…心配し恐れること。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

分数問題の解法 (高二)

或仕事ヲ十二日間ニ仕上ゲンニハ、毎日人夫十五人ヲ要ス。コノ仕事ヲ五日間ニ仕上ゲンニハ、毎日人夫幾人ヲ要スルカ。

凡て応用問題を解く場合には、その題意を熟読玩味せねばならぬ。
                   吉野栄三郎
この問題は比例の問題として取扱ふ方が容易であるが、特にここでは分数問題として解くのである。
                   小林徳太郎
先づ第一に何を考ふべきであるかといふと、人夫十五人で十二日間を要する仕事といふのである故に、一日これを仕上げんには、人夫幾人を要するか考へねがならぬ。
                   栗原寿作
次には今求めしところの人数を五分する。
                   本多文教
これ即ち一日に仕上げるに要する人夫故、五日なれば前述の如くなるのである。
                   栗原寿作
 12日ニテ15人。
 故ニ1日ニテハ(15×12)人
 5日ニテハ(15×12÷5)人
 (15×12÷5)=36
 答 36人

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日

綴方の上手になる薬

「越中富山の反魂丹*1」それを買ふには銭がいる。それで綴方の上手になる薬にはならない。何が上手になる薬かといふと、それは、三多丸といふ薬……。多読・多作・多商の三つをまぜてこしらへたもので、何でも文を多く読み、多く作り、作った文を多く訂正して行く……これだけのこと。飲んでにがい思ひをせずともよい。銭もいらない。

*1:反魂丹(はんごんたん)…越中富山の薬売りによって全国に広まった腹痛に用いる丸薬。

『児童文集』第3号 菅谷第一尋常高等小学校, 1916年(大正5)1月10日
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