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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

鎌形小学校

「情熱の詩人啄木」(大映) 鎌形小学校でロケ

大映では島耕二監督による映画「情熱の詩人啄木」(三月上旬封切)のロケーシヨンを鎌形小学校で行つた。
 このロケーションは授業に差支えがあつてはというので二月四日、十一日、十七日という日曜・土曜などに行われた。このロケーションに来た俳優は本郷功次郎、中村玉緒、岸正子らで、啄木には本郷、その奥さんに中村、また学校の先生に岸がなつている。
鎌形小学校を利用したのは石川啄木が明治三十九年(1906)(当時二十一才)、彼の故郷渋民村で尋常高等小学校の代用教員となり、月給八円で尋常科二年生の受持となつたこと、その後高等科の生徒にストライキを指導したことによつて在職わづか一年で代用教員をやめさせられてしまつたため母校を去つて行かなければならなくなつたことなどが関係している。
映画関係者の話によると、この明治時代の学校を再現するために適当な建物が見当らず、鎌形小学校が選ばれたということである。従つてロケーシヨンには窓ガラスを全部障子の窓に付け替えたり、運動場にある子供の遊び道具のジヤングル・ジムを見せなくするために物置小屋のようにしてしまつたりして苦心し、鎌形小学を明治時代の渋民尋常高等小学校に仕立てあげたわけである。
映画になる場面は石川啄木がこの学校に着任する時の模様を運動場で撮つた。昔風の紋付羽織、袴の先生方と着物姿ばかりの子供たちが列んで若き代用教員啄木を迎えるのである。それから彼がこの村を去つて北海道へ向つて行く別れの場面。村はづれで学校の女教師と子供達が手を振つて別れを惜しみ、啄木は妻と共に去つて行くのだが、これは千手堂橋のところで撮影した。
 このロケーシヨンに使つた子供たちは全部大映で連れてきている。又この映画で本村のロケが出てくるのはほんの一、二分程度とのことである。

『菅谷村報道』131号 1962年(昭和37)3月25日

写真提供:飯野富子氏

「情熱の詩人啄木」|写真

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真1

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真2

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真3

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真4
この「ふなだばし」は、千手堂橋(槻川橋)

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真5
八幡橋(都幾川)

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真6

「情熱の詩人啄木」ロケ|写真7

思い出すままに

           田幡武三

 昭和三十二年(1957)に教師になった私は、二年後(1959)に鎌形小学校へ赴任となりました。その鎌形小学校が、このたび創立百周年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。
 たった三年間の在職でしたがその間の思い出は、生涯忘れ得ぬものが数多くあります。学校給食は、週三日間で薪を燃やしての調理、故小林秀吉先生のご好意による六年生の課外英語指導など、他校では例のないものでした。
 六年生は、修学旅行と臨海学校を組み合わせ、夏休みに三泊四日の旅行です。江ノ島、鎌倉を見学し、横須賀市立鴨居小学校を借りて泊まり、海水浴、磯の生物採集、又一日かけて弁当持参で浦賀ドッグ見学です。初めて見る造船所の大型クレーン、進水式を終えたばかりの貨物船にみんな感激していました。
 当時の校舎が一部二階建てがよかったのか、大映映画、島耕二監督「情熱の詩人啄木」のロケに選ばれ、三学期の日曜日は鎌形小学校が渋民小学校に変身しました。テレビアンテナや風速計は取りはずされ、窓は障子張りの明治時代の学校そのものです。渋民小学校の児童役を演じた当時の六年生三十名の中には、今は母校PTAの役員としてご活躍されている方もおられるでしょう。
 こうした事を保護者や地域の方々が温かく見守って下さり、優れた伝統を育む素直な子供達の活気ある学校生活がありました。この歴史の重みに喜びを感じ、貴校並びに皆様方のご発展を祈ります。

『鎌形小学校創立百年記念誌』129頁 1992年11月
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