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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第1節:寺子屋から学校へ

大澤国十郎の「学務日記簿」からわかること

明治十年代の嵐山地域の小学校

 大蔵の大澤知助さん宅の文書の中に、明治時代前期に活躍した大澤国十郎の「学務日記簿」(大澤知助家文書No.671)という記録がある。これは1882年(明治15)2月から1884年(明治17)まで,学務委員として活動した時期の備忘録のようなものである。この紹介に入る前に、大澤国十郎が学務委員として活動を始める以前の明治初期の教育状況を見ておこう。

明治初期の「学制」時代の教育状況と嵐山地域

 徳川幕府を倒して成立した明治政府は、1871年(明治4)に文部省をつくり、翌72年には近代的な教育制度の樹立をめざす「学制」を定めた。その序文では「自今以後、一般ノ人民(華士族農工商及婦女子)必ス邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人無カラシメン事ヲ期ス」と述べ、国民すべてが学ぶべきことをめざし、6歳以上になると男女の別なく小学校に入学させること定めた。学校の制度はフランスの中央集権的な教育制度を参考にしたものであった。
 この「学制」のもとで1873年(明治6)から各地で小学校の設立が始まるが、嵐山地域では73年に鎌形の班渓寺(はんけいじ)を仮用して鎌形小学校が設立された。これは鎌形、遠山、田黒の一部の連合で成立。同年椙山(すぎやま)小学校を設立。通学区は杉山、広野、太郎丸、越畑、古里、勝田、吉田。翌74年に菅谷小学校が成立。校舎は東昌寺を使用。通学区は菅谷、千手堂、志賀、平沢、大蔵、根岸、将軍沢であった。「国民皆学」をめざして始められた学校であったが、全国的に就学率は非常に低かった。嵐山地域の1874年(明治7)の就学率は次のようであった(『嵐山町史』704頁)。
       生徒数  就学生  不就学生
椙山小学校  289  86   203
鎌形小学校  241  73   168
菅谷小学校  129  45    84

 政府が「国民皆学」の方針で取り組んだはずの学校で、就学率は全国的にも低く、女子の場合はさらに低かった。埼玉の不就学の理由は「父業ヲ助ル為メ」が大半であったという。生活に苦しい人たちの間では、「学制」に基づく中央集権的な教育政策に不満が高まった。政府は1879年(明治12)に、それまでの「学制」に代わって第一次教育令を発布して、「学区制」に代わって各町村あるいは数町村連合して公立小学校を設置するように変更した。その際、私立小学校がある場合には公立小学校を設置しなくてもよい。就学年限は6歳から14歳の8ヶ年とするが、土地の状況によっては4ヵ年まで短縮できるという就学の緩和策がとられた。これによってこれまでの画一的なやり方から地方分権的な方向にかわったが、これは公立中心の国民教育政策の重大な変更を意味していた。その結果、公立学校の衰退と質的な低下という問題が起り、翌1880年(明治13)に第二次教育令を発布して公教育の再建に取り組むことになった。この再建期に大澤国十郎は学務委員に就任して活動することになるのである。

大澤国十郎の「学務日記簿」から

 「学務日記簿」は1882年(明治15)2月4日から記録が始まるが、冒頭の4日のところに「学務委員御指令下ル」と記され、以後日ごとに学務委員としての活動内容が記されている。

1 学務委員の任務

 最初に学務委員はどんな委員かを見ておきたい。「学制」時代には「学区取締」とその下に「学校保護役」を置いて教育行政を担当させたが、学務委員の制度はその「学区取締」に代わって、1879年(明治12)の第一次教育令の第10条「町村内ノ学校事務ヲ幹理セシメンカ為ニ学務委員ヲ置クベシ」に基づいて設置され、第11条「学務委員ハ其町村人民ノ選挙タルヘシ」となっていた。任務は第12条で「府知事県令ノ監督ニ属シ児童ノ就学学校ノ設置保護等ノ事ヲ掌ルベシ」と規定されていた。しかし翌年の第二次教育令によって選出方法が改正されて、学務委員の定員の二倍ないしは三倍を推挙し、その中から県知事が選任するように改正された。大澤国十郎はこの規定で学務委員に選任されたのである。主たる職務は就学の督励,学校の設置・維持などであった。以後日記簿に沿って活動を見ていこう。

2 大澤国十郎の担当校と当時の教員

 国十郎は前任者から学事を引き継ぐと、直ちに大蔵校(明治12年設立)、菅谷校、鎌形校の概覧表を作成して、2月13日に郡役所に出頭している。この3校が学務委員国十郎の担当校で、以後何回となく松山町にある郡役所にも足を運ぶことになる。
 14日から17日にかけて3校を回り、各教員と顔合わせをしている。大蔵校では教員雇泉井、菅谷校では杉山村士族教員柳川茂雄、下唐子村農教員小河百太郎、志賀村農助員大野角次郎、鎌形校では石川県士族雇教員上森捨次郎,遠山村農授業生高橋徳太郎と。明治の「学制」では、「小学校教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ、師範学校卒業免許或ハ中学免状ヲ得シモノニ非レハ、其任ニ当ルコトヲ許サス」と定められていた。この規定を受けて、旧埼玉県は1873年(明治6)に「埼玉県公私小学規則」で教員の資格を定めた。しかし現実には師範学校や中学の卒業者は極めて少数で、教員の需要を満たすことが出来ず、教員に相当する学力をもった者に道を開くため学力検定試験をおこなった。当時の教員の名称は、訓導、訓導補、授業生、助教生などがあった。訓導は師範学校卒業者で正規の教員、訓導補と授業生は教員志願者のなかから試験によって任用された教員である。

3 教育行政の担い手としての多忙な日々

 担当する3校の概要のまとめ作成、1月の開校につき3校出張、各校の月末試験の立会い、春季試験や秋季試験の立会い、学齢人員表の作成、学校修繕への立会い、教員の免許状の伝達、学校修繕立会、教育雑誌2冊中尾校へ回送、村からの予算金の受領、地方税からの小学校補助費の受領、教員の増減伺い、教育費の予算および決算の督促、来訪する戸長や教員との応対、学区費や学校費の清算、就学不就学調べで各校に出張、年間授業日数調、教員の講習会参加割り当てなど。これらの仕事のために頻繁に郡役所に伺いを立て、あるいは出頭している。こうした仕事に追われているが、学務委員の仕事の中心は当時の状況の中で、就学の督励と学校の設置・維持にかかわる仕事で、地域の教育行政を担う重要な役目であった。

4 授業日数と長期休業

  1883年(明治16)中授業日数
1月 17日半  4月 21日半  7月 22日半  10月 22日
2月 22日半  5月 25日   8月 25日   11月 22日
3月 24日   6月 ナシ    9月 23日   12月 19日
合計 243日

  1883年(明治16) 半年末調査表 授業日数
     鎌形校    菅谷校    大蔵校
1月    20日     20日    20日
2月    22日     18日    22日
3月    26日     27日    26日
4月    18日     20日    18日
5月    27日     27日    31日
6月     8日
計     121日     112日    113日

 ここに「学務日記簿」から二つの授業日数表を紹介する。最初の表は、1883年(明治16)の1月に記された年間の授業予定日数。次のものは1883年の最後に前半の6ヶ月分の実施時数を記したものである。ここで注目されるのは予定表では6月がナシ、実施表でも鎌形が8日だけで、菅谷校と大蔵校では授業日がないことである。その理由は日記簿の1883年(明治17)6月21日の項で「農桑中休業6月9日〜7月8日」とあるように、その時期は養蚕を中心にした農繁期で学校が休みになり、子どもたちは農業の手伝いをしていたのではないかと思われる。当時まだ子どもが家の仕事を手伝い不就学者が多かった時代である。今日のような8月の夏休みはなかった。また各学年は今日のように4月からではなく、1月から始まり12月で終わっていたようである。

5 教員の給料

 教員の待遇については、第一次教育令では何も規定されておらず、埼玉県でも給与規定がなかった。したがって学務委員と教員の自由な契約で、学校間の格差もあったという。第二次教育令が出てから1881年(明治14)に、府県知事が教員の俸給を決め文部省の許可を得ることになった。これによって訓導、準訓導の月給は県下一律になった。しかし授業生の月給は学校ごとに定めて届け出ることになった。「月俸規則」によると訓導(1等〜7等)、準訓導(1等〜7等)、授業生(1等〜3等)ごとに月額が示されていた。次に示す嵐山地域3校の教員の給料の一覧は、この段階のものである。
 この表から、鎌形校は教員1人と授業生2人で、教員の給料は月給10円で6ヶ月分60円、授業生は3円が1人、2円が1人で6ヶ月分30円であることが分かる。教員も授業生もそれぞれ等級があったので、給料の額が違っていた。
 次の就学不就学の資料でわかるように、当時の生徒数は少ないので、1校が教員2、3人で運営していたことが分かる。

1883年(明治16)2月1日(3校)
表簿式調  教員給料ノ計


金240円  14年度下半年
此訳    鎌形校      菅谷校    大蔵校
教員給料  60円      60円    36円
    (10円1人            10円1人)
授業生   30円      36円    18円
   (3円1人、2円1人  3円2人   3円1人)

金142円  15年上半年
此訳    鎌形校    スカヤ    大クラ
教員   102円   102円    42円
    (山下半年入   小川給半年分入)
授業生   24円    36円    18円
    (4円1人    3円2人   3円1人)

合計
教員   162円   162円   78円
授業生   54円    72円   36円

  総計   金402円  教員給料
       金162円  授業生給料
  合    金564円

次に参考までに3校の1ヵ年の経費を上げておく。経費の合計は912円71銭なので、上で見た教員の給料が学校運営費の約62%を占めていたことが分かる。

1883年(明治16)1月調 1ヵ年経費
金 312円22銭5厘  鎌形校
金 409円16銭    菅谷校
金 191円32銭5厘  大蔵校

6 就学不就学調査

 明治時代の教育の課題の一つは、児童の就学率が低いのでなんとか上げることであった。これは各学務委員の課題で、就学の督励のための調査が毎年のように行われた。この「学務日誌簿」に1882年(明治15)12月調査と83年12月調査が記されている。825年調査のものは男女の別はなく就学・不就学の数が学校別に記されている。83年12月調査の方は就学不就学が男女別と村別にも分けて記されていて、非常に貴重な記録になっている。
 1883年(明治16)12月調査では3校とも女子の就学率が低いことがわかる。これは全国的にもほぼ共通の状況である。そうした中で鎌形校の通学区である遠山村の不就学は全員女子の9人で男子はゼロ、菅谷校の通学区の平沢村の不就学は男子2人に対して女子8人、千手堂村の不就学は男子3人に対して女子10人、大蔵校の通学区の将軍沢村の不就学は女子10人で男子はゼロであることが目につく。これらは家の仕事との関係があるのだろうか。あるいは村が小さく、学校からやや離れていることが関係するのであろうか。

就学不就学の数 明治15年12月調 
1882年(明治15)度の分

就学生 268人    不就学生 162人
 内  84人 鎌形校   内  66人 鎌形校(人口 975人)
   128人 菅谷校      61人 菅谷校(人口1283人)
    56人 大蔵校      35人 大蔵校(人口 596人)
(内 11人減 257人)

就学不就学の数 明治16年12月調 
1883年(明治17)度中の学齢就学不就学調査票

鎌形校
学齢人員  176人 内 男80人 女96人
内訳 就学 105人 内 男    女
   不就学 71人 内 男    女
                        (村名)
   就学  91人 内 男 56人 女 35人 鎌形
   不就  62人 内 男 15人 女 47人 同
    計 153人
   就学  14人 内 男  9人 女  5人 遠山
   不就   9人 内 男  ナシ 女  9人 同
    計  23人
菅谷校
学齢人員  226人 内 男106人 女112人
内訳 就学 142人 内 男     女
   不就  86人 内 男     女

   就学  40人 内 男 20人 女 20人 菅谷
   不就  18人 内 男  5人 女 13人 同
    計  58人
   就学  54人 内 男 40人 女 14人 志賀
   不就  45人 内 男 14人 女 31人 同
    計  99人
   就学  39人 内 男 19人 女 11人 平沢
   不就学 10人 内 男  2人 女  8人 同
    計  40人
   就学  18人 内 男 13人 女  5人 千手堂
   不就学 13人 内 男  3人 女 10人 同
    計  31人
大蔵校
学齢人員  113人 内 男 54人 女 59人
内訳 就学  76人 内
   不就  37人 内

   就学  43人 内 男 21人 女 22人 大蔵
   不就  20人 内 男  5人 女 15人 同
    計  63人
   就学  14人 内 男 11人 女  3人 根岸
   不就学   7人 内       女  7人 同
    計  21人
   就学  19人 内 男 17人 女  2人 将軍沢
   不就  10人 内 男     女 10人 同
    計  29人

総計  515人  学区内
 内  就学    321人 
    不就学   194人

 以上「学務日記簿」の主なことを紹介してきたが、大澤国十郎が学務委員の任務を果たしたのは、明治の学校制度が始まって試行錯誤しながらもしだいに制度を整えて近代的な教育の基礎を固めた非常に重要な時期であった。

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