第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
1872年(明治5)学制が発布されても、子供を学校へ行かせる親はそれ程多くありませんでした。翌年早くも「学問ハ人民日用ノ急務」として就学を促す告諭が出されています。1875年(明治8)には「不就学督促法」によって正副戸長にその責務を負わせ、「不就学子弟ハ督促ヲ受クヘシ」と強い口調でその実行を迫りました。しかし広野村の就学調べによれば、1876年(明治9)でもわずかに20%に過ぎず、全国的に見ても38%でした。その原因は根底に、農民に学問は不要との考えがあったうえに、貧困、授業料の必要(1900年廃止)、父母の業への手伝い(子守・農事)等が重複して不就学現象を起こしていたのです。
1879年(明治12)学務委員制度が設置され、当地域でも田幡宗順・井上萬吉・大沢国十郎・市川常吉らが任命され、主として就学督励に当たりました。その努力の結果1882年(明治15)菅谷地区(第九学区)で就学率50%に達し、1900年(明治33)には七郷第一学区でも54%になりました。就学率は向上したものの、今度は長期欠席児童が多くなって行きました。1901年(明治34)「町村長会指示事項」の中に「欠席生徒取締ニ関スル件」として「出席生徒の多寡ハ県費補助ノ配当額ニモ影響」するとして、その取締の励行を示唆、学務委員は益々多忙となっていったのです。義務教育として満足される就学率に達するのは大正期に入ってからのことでした。