第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
畜産
酪農をやめた当時のこと
長嶋 崇
五年前、私は十五年やった酪農経営をやめ、現在は兼業農家として、ポリエチレンの袋を製造している。農業を始めて二年目二十一才の時、青年団の意見発表で県代表として全国大会へ出場したことがある。その時は「豊かな農業生活を目指して」と題して発表し、主題となったのは労働日誌を付けての反省からの経営改善であった。特に酪農経営を伸ばす事が労働の平均化となり、労働が完全燃焼する事が経営発展につながると言う内容だった。今思い出しても「我が青春は乳牛と共に」と言う事が出来る。自分で言うのもおかしいが、農業青年としてまじめに働き、真剣に生きて来たと思っている。それがなぜ急に酪農をやめ、農業以外の職に付こうとしたのか? 興農青年会を結成する時(1965)も関根秀勇君と私で話が始まり、又当時青年団等青年団体がほとんど活動しておらず、又関根茂章氏が村長に就任したばかりで、農村青年の組織を強く希望していた。そうした多くの人達の協力で会が誕生した。そして、「農業をやる仲間として一緒に力を合わせて頑張ろう」とはげましあった。
『興農ニューズ』第4号 嵐山町興農同志会, 1976年(昭和51)3月31日
その私が【嵐山町興農青年会】三代会長【昭和44・45年度】として解任となってまもなく、酪農をやめざるを得なかったのである。その時、友達や仲間になんと言ったらいいんだろうかと思うと本当につらく、ただ皆にすまないなと思うばかりだった。
それまで農業以外の職につくなど少しも考えた事はなく、もっと立派な農業経営にしたいと考えていた。いつしか政府は稲作の減反政策をうち出し(1970)、又乳価の割に飼料は高くなり、農業の将来に対しての不安は募るばかりだった。こうした時の夏、消防団のポンプ操法県大会出場の訓練と仕事と火災出動が重なり、過労で高熱を出し五日間寝込んでしまった。ようやく働けるようになった直後に、今度は交通事故で追突に合い、ムチウチ症になってしまった。搾乳しても首が痛くてうまく働けなく、妻に対し非常な労働過重になってしまった。成牛十八、若牛二、育成牛五の計二十五頭全部売ろう。そしてもう一度第一歩から新しい人生を始めようと決心したのはこうした苦しい気持の時だった。
しかし、酪農をやめれば次に何をするのかも考えなくてはならないが、それよりも十五年間良い資質の牛を育てようとし、気に入った牛も何頭かそろって来た時だけに、売るとなると惜しい気持でいっぱいだった。四十五年(1970)九月一日、武蔵酪農事務所と家畜商秋田屋へ行き、乳牛売却の相談をした。全牛一括秋田屋へ売却するが、一週間猶予をおいて、武蔵酪農の人達でほしい人があればやる、という条件をつけた。それは能力も血統もいくらか自慢出来る牛が二、三頭いたので、これだけは余り遠くへやりたくなかった。出来る事なら近くの人に飼育してもらいたかったからである。
最近聞いたのだが、当時出した牛の「イエツケ」の系統は比企地方で三十頭以上で、正にこの地方一の名牛になっている。私の所へも四年前にホルスタイン協会より「イエツケ」に対し名誉種雌牛としての称号が送られて来た事からも確かな事だろう。
こうして酪農から離れたが、考え方はいつになっても農民的な考えから出る事は出来ず、今(1976)は現在の仕事に全力をぶつけて頑張っている次第である。