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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第5節:報道委員会と『菅谷村・嵐山町報道』

草の根フォーラム

功績表彰式を考える

 嵐山町主催による功績表彰式は恒例として毎年行われています。今年も二百十九人という大勢の該当者に立派な案内状が届きました。欠席の場合は代理を、と念が押されています。
 この該当者というのは、ほとんどが行政所管の審議会や委員会などに所属していた人たちです。
 任期を満了したか、自主的に辞任したかの違いはあるにしても五年とか、十年とか、あるいはそれ以上といった在任期間によってその人たちはある種の区別があります。
 この表彰式については、以前から何となくスッキリしないものを感じていましたが、あらためて考えを整理してみますと幾つかの疑問が浮かんできます。
 念のために「功績表彰」の意味を広辞苑でしらべてみますと、功績=てがら・いさお、表彰=善行・功労・成績などを世に広くほめあらわすこと、とあります。
 これだけでも前時代的な感がぬぐえないところですが、それはさておき、とりあえず「功績・表彰」について素朴な疑問を投げかけてみることにします。
 まず、前述したように年数によって区別があるということについてですが、これは、○○さんは何をしたかよりも、在任期間は何年だったか、という時間の評価であって、功績の意味とは何もかかわりがないことになってしまいます。
 つぎに、寄付とか献血とか個人の自発的行為と、職場(町役場)を定年退職したことが並列になるのだろうかということです。
 無償の行為である個人の善為と、いかに優秀であったとしても職責を全うしたことが同じレベルで考えてもいいのかどうか、私にはどうしてもおかしいと思えるのです。
 誤解のないようにつけ加えますが、決して人格についてうんぬんしているわけではありません。
 どうしても功績表彰が欠かせないとするならば、以上の二点だけでも検討していただきたいと思います。
 町政の活性化のためには、町民参画型の行政が望ましいのは当然です。今後を予想すれば各種委員会などもどんどん新設されると思われます。したがって表彰式の該当者はますますふえることになります。
 式を簡素化する方向で見直すのも時機ではないでしょうか。
 この三月に報道委員会を辞めたことによって、私も七月に行われた功績表彰式に出席した一人です。
 表彰を受けた立場でこのような文章を公にするということは相当ためらいがあるのは否めませんが、だからこそと勇気をふるいおこして書かなければと思うのです。
 それは、表彰を受けたのだから少し位のことは目をつぶってしまおう、そのうち誰かが言ってくれるだろうなどと物言えぬ心境になってしまうことを恐れるからです。
 もし本当にそんな作用をするものであるなら、表彰式は町民の口封じのためにあるということになってしまいます。
 今どきそんなことがあるはずがない、とそれを証明するためにあえてペンをとりました。
志賀二区 武谷敏子 

『嵐山町報道』423号「草の根フォーラム」1993年(平成5)9月1日

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