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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

明治時代

正・副戸長と村政

 1871年(明治4)、戸籍法が定められその担当者として戸長制度が設置された。翌年大小区の行政区画の実施により大区には区長、小区には戸長が置かれることが定められ、政府の地方支配機構の末端に位置するものとして戸長は誕生した。

 1872年(明治5)には従来の村方三役(名主・与頭・百姓代)の称は廃止され、正・副戸長となった。戸長は選挙によって選ばれ、その年限は三年から四年とされていた。選挙は「不動産のなき者・婦人・十五歳以下の者・戸主に非ざる者・懲役一年以上の刑を受け放免後満三年を過ざる者」は除いた村民達の投票で行われたが、多数の投票を得たもの二、三名の中から「当役官選ニ任スベシ」として、県庁役場において選任した。根岸村の根岸太之吉は1874年(明治7)、熊谷県から「戸長申付候事」という辞令を交付されている。選挙といってもやはりお上から申し付けられる役職であったようである。

 正・副戸長職は「其村之土地人民ヲ保護シ各自主之権力ヲ保チ他人ノ妨害ヲ防キ上意ヲ下達シ下情ヲ上通スルノ任ナレバ尤公正忠愛ノ人ヲ選挙セサルヘカラス」ということで、戸長の適格性は述べつくされている。1875年(明治8)にも正副戸長心得が出されているが「其部内の保護と上布令の旨趣を奉し下人民の勤惰を監視し丁寧親切に?正すへし」とその役割を示している。

 正副戸長の仕事を特定することは困難だが1875年(明治8)から1884年(明治17)にかけて記録された各村の「戸長役場備置帳簿」を見ると、共通しているものに戸籍簿・田畑反別名寄帳・地代台帳、地引帳・租税割賦帳・租税取立帳・田畑質地押印帳・地所売買譲渡公証割印帳・村議定書・五人組帳等がある。思うに村民一戸一戸に対する把握、村民の集合体である村経営の掟を定めること、村民の所有する土地の把握、それから生ずる租税に関する割当、取立、皆済の仕事、或いは土地の売買、質入に対する戸長の奥印・証明等々が主たる仕事であった。前出1875年(明治8)の「正副戸長心得」に賦課・収税・請願伺等の戸長奥書、公布諸達の衆知について注意すべき点を教諭しているのと附会する。

 村の財政を司るのも戸長の役目であった。1884年(明治17)から1888年(明治21)の五年間の古里村の村費を見ると次の通りである。村費は地租の三分の一と定められているので、ここの村費が全額とも思れないが支出が明細でなく、丼勘定の感が強い。1874年(明治7)の古里村の「記」とされている書付をみると会所入費・学校入費・筆墨紙ろうそく代・炭代・出県入費・学校入費及び定使給等が記載され、やや細かい状況が把握できる。最後に1883年(明治16)、古里村戸長安藤貞良が村勢を調査したものが残されているので、それを見よう。

町村名 古里村

人口 四百五十七人
戸数 八十四戸
田畑山林総反別 弐百弐町八反八畝十二歩
病院 ナシ
学校 五ヶ村聯合吉田学校エ通学
村社名 兵執神社*1
戸長役場 第四十二番地安藤貞良自宅貸用ス

*1:兵の字は舟へんに厥

 戸長役場は戸長の自宅であったことがわかるが、1876年(明治9)調査の『武蔵国郡村誌』においても嵐山町旧十六村すべて「戸長宅舎を仮用す」となっているから、聯合戸長制或いは1889年(明治22)の市町村制施行まではこんな状況だったのだろう。七ヶ村が合併して七郷村になり1897年(明治30)に至ってようやく役場が新設されるようになる。

参考文献・資料:
 中村常男家文書No.943 正副戸長選挙規程
 内田喜雄家文書No.95 平沢村 村役場附書類目録 明治8年
 根岸茂夫家文書No.37 根岸村 戸長役場帳簿目録 明治17年
 根岸茂夫家文書No.10 根岸村 戸長辞令書 明治7年
 藤野治彦家文書No.188 吉田村 戸長役場備置帳簿預リ証 明治17年

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