ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第1節:江戸・明治・大正

江戸時代

古里村(ふるさとむら)の相給(あいきゅう)

 江戸時代の政治体制は大名領国制であったが、この地域の属する武蔵国一帯は川越・忍・岩槻の各藩を除けば、ほとんど幕府直轄の御料地か直轄地を採地として旗本に与えられた土地であった。御料地は代官支配であり、旗本に与えられた知行地は夫々各旗本の支配とされた。村が行政の単位の様に見られているが、それが確固たる形を形成したのは明治(廃藩置県)以降のことであり、それまでは一村といえどもその中に知行主が何人もあれば夫々の支配を受けた。このように一村を二人以上の旗本が分割して知行している状態を相給といった。
 この嵐山町旧十七カ村の支配体制は幕末期、次の「表1」の様であった。旧菅谷地域は大部分川越藩松平家の所領であり、菅谷(すがや)・勝田(かちだ)・太郎丸村(たろうまるむら)は猪子家及び、杉山村(すぎやまむら)は森川家と一家の支配であったが、越畑(おっぱた)・吉田(よしだ)・広野村(ひろのむら)はそれぞれ四旗本の支配を受け、これを四給の村といった。そして古里村はなんと御三卿清水家も含めれば十給となり、相給の村としては珍しく細分化された地域であった。

表1

旧村名知行主・領主
菅谷猪子
志賀松平(川越藩)
平沢松平(川越藩)
遠山松平(川越藩)
千手堂松平(川越藩)
鎌形松平(川越藩)
大蔵松平(川越藩)
根岸松平(川越藩)
将軍沢松平(川越藩)
古里長井・市川・有賀・松崎・森本・横田・林・内藤・清水御料地
吉田折井・山本・菅沼・松下
越畑酒井・羽太・山高・黒田
勝田猪子
広野内藤・島田・木下・大久保
杉山森川
太郎丸猪子

 古里の詳しい相給の様子及び変遷は「表2」に示した。徳川家関東御入国以来享保に至る間に段々と分与が繰り返され一七三二(享保十七)年の「村鑑」に示されたような相給が形成された。その後は松崎家の兄弟相続の時分与があった以外は幕末まで変化なく継承されていった。一八三九(天保十)年の「村鑑」に書き上げられたものをもって、御三卿御料地も含め十給の村と考えてよいと思うが、この様に一村で十給にもなる村は少ない

表2

享保以前享保17年
(1732)
文化14年
(1807)
天保10年
(1839)
明治元年
(1868)
徳川家は関東御入国以来元和(1615)頃までに旗本に対し、知行地を与えていた。長井、市川、有賀、松崎各家及び酒井家は当初から知行地を貰い、その他は御料地として代官が支配していた長井五右衛門
10石
長井五右衛門長井龍太郎
10石
長井又五郎
10石
市川瀬兵衛
30石
市川瀬兵衛市川信八郎
30石
市川鉄太郎
30石
有賀長三郎
114石4斗9升
有賀繁之丞有賀滋之丞
114石4斗9升
有賀錦十郎
114石4斗9升
松崎権左衛門
17石5斗1升
松崎藤十郎松崎藤重郎
10石5斗1升
松崎藤十郎
17石5斗1升
1745年( 延享2),7石を弟伊織に分与松崎甲之進松崎甲之進
7石
 
正保の頃は酒井紀伊守の所領。1698年(元禄11)に、林半太郎、権田源太郎、森本惣兵衛に分与森本助重郎
11石7斗6升
森本寛次郎森本惣兵衛
11石7斗6升
森本潤七郎
17石1斗
横田斎宮
28石5合2勺
横田源太郎横田三四郎
28石5合7勺
横田裕次郎
28石5合7勺
林理左衛門
61石6斗6升4合3勺
林半太郎林内蔵頭
61石6斗6升4合3勺
林辰太郎
61石
1642〜1644年(正保)、御料地(天領)46石2斗6升2合を代官高室喜三郎の時、御三家清水家と内藤権右衛門に分与内藤権右衛門
20石2斗2升7合
内藤熊太郎内藤一学
20石2斗2升7合
内藤真人
20石2斗2升
清水御料地
26石3升5合
当分御預所
山田常右衛門(代官)
清水御料地
26石3升5合
 
新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌「村鑑之控」(中村常男家文書1)「 訴訟文書」(中村常男家文書242)「 村鑑」(中村常男家文書318)「旧旗下相知行調」(県史編纂室)

 十給中には長井家のように古里での知行高が少なくても(十石)、総石高は一七三〇石とかなり多く、随所(七郡)に知行地を持っている者、松崎家のように古里では兄弟合わせて十七石余だが、総石高は五〇〇石あり比企の伊戸村との二カ所に知行地を有する者、有賀家のように古里では最も多い一一四石余の採地をもつているが総石高は四〇〇石といった風の者もあり、古里の知行高のみでは推し量れないものもある。こうした旗本家の様子を「表3」にまとめて見た。

表3

旗本氏名総石高古里以外の知行地御屋敷所在地
長井又五郎
(竜太郎)
1730石男衾(武)・印旛・香取・海上(下)・行方・鹿島(常)・望陀(上)麹町裏二番町
市川鉄太郎
(信八郎)
439石男衾・入間・多摩(武)・千葉・印旛・香取(下)牛込門内土手四番町
有賀金十郎
(滋乃丞)
400石男衾・高麗(武)下谷三味線堀
松崎藤重郎
(藤十郎)
500石伊戸村(武・比企)本庄(所)徳右衛門町
森本惣兵衛
(潤七郎)
500石榛沢・秩父(武)・望陀(上)・愛甲(相)深川清住町
横田裕次郎
(三四郎)
1000石旛羅・緑野(武)本庄(所)南割下
水きん堀
林辰太郎
(内蔵頭)
500石高谷村(武・比企)市谷鷹匠町
内藤真人
(熊太郎)
600石男衾・高麗・南埼玉(武)・豊田(下)四谷仲殿町


江戸御大絵図(画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
各村の領主の旗本は、上の絵図の様に江戸に屋敷をもらい、そこで暮らしていた。この地図は不忍池付近。

 この様に一村が十給にも及ぶ支配系列に置かれると何かと不便があったであろうと想像されるが、ただ問題によっては知行地の区分を越えて一村が結束して事に当たった記録もある。例えば年を追って厳しくなった助郷において「増助郷」や「差村」を通告された時は一村を挙げて連名連印をもって免除を歎願している。又、鉄砲の不法使用によって迷惑を蒙る農民たちは知行所村役人連署してその停止を訴願している。なお河岸・沼の修理、道路・橋の整備、犯罪への対応、水害・旱害への対処等知行所単位より村全体として取り掛からねばならない問題も多く、名主・組頭・百姓代等の村役人が連携して総代を定め対処していった。

このページの先頭へ ▲