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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

あとがき

 昭和四十年(1965)正月のはじめ、関根(茂章)村長と、関根(昭二)教育委員長から「村誌を書いて呉れ」という話があった。このことは前にも聞いたが、お断りして来た。私にはその力がないからである。お粗末なものを作って、後世に恥をさらすのは辛い。いや、それは忍ぶとしても、それより尚いけないのは、多額の村費を無駄遣いするおそれがある。これは罪が重い。それでは相済まぬと考えたからである。
 ところで村誌編纂の計画が始ったのは、昭和三十七年(1962)で、その後、毎年所要の予算がつけられたが、遂に着手の段取りに至らなかった。そして三年目になった。だから、もうこの辺で、何とかしなければならない、という時機にぶつかっていたわけである。私もそれを考えていた。すでに出発点に立っているのである。何はともあれ、今はただ、走り出すことである。これ以外にはない。これが一番大切なことである。誰が適材であるかの詮索は別にして、とも角スタートさえすれば、あとは第二走者以下でバトンをうけついでくれる。最後には、立派な正しいものが出来るにちがいない。全て、学問の成果というものは、そのような積み重ねの上に、みのるものである。私はそんな思いに気をとられ、肝腎の力不足のことは忘れて、その仕事を引きうけてしまったのである。
 村誌編纂委員会も、メンバーを改めて、進発足の形となった。私はこの委員を煩わして古い記録の類を集めたり、村の古い風習などを調査したりして、資料の蒐集をはじめた。又、一方では少し基礎的な勉強もして、問題の所在を、たずねようとした。こうしている中に、農村共同体の問題が浮んで来たのである。地域社会とは、その地域内の人々の社会生活が、他の地域の人たちとは異った独特のものを持っているその区域のことを言うのである。独特のものとは、その地域には住む人たちにとっては、重要で不可欠であるが、他の地域の人々に対しては差してかかわりがないという性格のものである。
 この地域社会として、今最も顕著に存在するものは、町の「大字」である。これは昔の「村」であった。私たちは今も、「大字」の様々のおきてに従って生活している。このおきては「大字」独特のものである。「大字」つまり昔の「村」は私たちの最も身近な地域社会である。この独特のものについて、一つだけ例をあげてみよう。
 「鎮守様の祭り」がある。町村が合併し、町制が施行されても、各字の鎮守様の祭りには何の変りもない。事祭典に関しては、統合も分割もなかった。「大字」を単位として、概ね昔のままの形で、祭りが行なわれている。祭典は全くその「大字」独特のものである。「大字」の住人は、その「大字」の祭典のおきてには従うが、他の「大字」の祭りには関係がないのである。私たちは「大字」という地域社会に生活しているのである。この地域社会の実態は、農村共同体である。「大字」という地域社会は、農村共同体として、とらえることが出来るのである。ここに私たちへの課題が示されたのである。
 そこで、村誌編纂の目標をこの農村共同体の成立やはたらきなどに向けることになった。つまりこれは、昔の村の成立や村の生活を調査、研究することになるのである。「大字」は昔の「村」である。
 こうして、一応村誌(町誌)は出来た。然し、何しろ、私はずぶの素人で、基礎的の勉強が出来ていない。そのため終始、手当り次第に問題をつかみ出したり、その問題の追求に、いつももう一歩の踏込みが欠けたり、個々の問題を、全体的に構成して究明することを怠ったりして、甚だお恥かしいものをでっち上げてしまった。独断と偏見に率いられた「プロクルステスの寝床」という評が一番当っているかもしれぬ。
 然しこれはもともと承知の上のことであった。これは発走であって、終着ではない。これを叩き台にして、やがて、立派な正しい町誌が出来上れぱそれでよいのである。私のねがいは、ここに存するのである。
 三年間の仕事を通じて、委員長の関根町長をはじめ、委員の皆さんが、資料の蒐集や、情報の調査について、無所求の努力を傾けられて、私を応援して下さった。関根昭二君は、大学生の時、折口信夫から、直接民俗学を学んだ。この人の助言も有難かった。お世話になった方々に、心から感謝を捧げる次第である。
  昭和四十三年八月
小林博治   

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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