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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第7節:結び

村の生活について

 領主は天領―大岡領―天領―清水領―天領―清水領―天領―清水領―松平領と、めまぐるしく変っている。だから一貫した民政が行なわれなかったことはいうまでもない。これも私たちが考えたとおりである。領主の施設としては、高札場があってこれに切支丹禁制のもの、鉄砲所持禁止のもの、徒党強訴を禁ずるもの、火付を取締るものの四つがあっただけである。まことにお粗末なもので異彩がない。高札場は現在里程標のある場所らしい。又「村鑑」には、「御普請場」はなく「自普請場」は御座候とある。領主管理の土木建設の事業はなく、すべて自普請(村管理)で実施しているという意味である。自普請としては堀の小橋十ヶ所、槻川の大橋一ヶ所、用水溜井八ヶ所の補修等が書上げられている。領主の行政力は村に届かず、それだけに村の自治が百姓生活の主要な支柱になっていたわけである。
 村役人は名主茂兵衛、与頭源左衛門、長左衛門、百姓代庄左衛門の四名である。この村方三役には村民の同意が必要とされた。年代不詳「差上申済口証文之事」(関根関太郎氏蔵)によると、「千手堂村の名主は茂兵衛、善助の両名が年番でつとめて来た。この頃善助が老衰したので名主役を婿の太郎兵衛にゆづりたいと申出た。ところが村民十一名はこれに賛成したが、あとの二十名が反対して紛議が生じた。両派の代表が役所に出てそれぞれの主張を訴えた。役所では野本村の名主を仲裁人としてその和解をはからせた。仲裁人が両派の間を斡旋(あっせん)した結果、善助の退職を保留し、婿太郎兵衛の実躰をよく見届けた上、数年後に可否を決することとして事件の落着を見た。太郎兵衛を忌避(きひ)した理由は明らかにされていないが、おそらくこれは太郎兵衛が婿であるため、まだ村人全体に馴染(なじ)まぬ点があったのであろうと考えられる。そこで太郎兵衛の人物研究と、村の空気にとけきるまでの経過措置として、数年間の保留が考えられたのであると思われる。村の共同体制を撹乱(かくらん)するものは異質者の混入介在である。村人は異質なものに対して極度の警戒心をもった。共同体制の動揺をおそれたからである。知らぬということは不安の種となる。他村の生れである太郎兵衛については未知の要素がある。この未知の部分が村人に対して異質的な不安をもたらしたものと思う。私たちはこの場合、太郎兵衛を他村からの入婿として話を進めて来たが、それは間達いないと思う。なぜなら若し同村内の婿なら未知の要素は存在しないから、このような問題は起る筈がないというのが私たちの主張だからである。村方三役の地位や職掌は、決して一部特定の者の恣意(しい)や壟断(ろうだん)を許さなかった。それは安寧と繁栄に奉仕すべきものだったのである。それで村民全体の同意を必要としたわけである。村の共同体と村役人の関係も先にのべたとおりである。
 年貢は村人の公的の生活を率(ひき)いるものであった。年貢は「定免」つまり納付高が一定していた。天保年度には現物でなく金納になっていた。相場は張紙値段に運賃三両を加えたものである。張紙値段は農作物の相場を幕府できめ、これを要所に張りつけ、年貢金納の標準としたものである。畑年貢は三、九、十二月と三回に分納し、近隣の四ヶ村で共同し隔番(かくばん)で上納し、村単位で年貢を納めたのである。四ヶ村というのはどことどこであるか不明であるが、村と村との間にも近所付合いがあったことが知られる。もつとも文政十年に幕府は、関東全域に「御取締筋御改革」という触書を出して、その中で組合村を作らせている。隣接の村々約四、五十ヶ村を目安に大組合をつくり、さらに大組合の中に、大小、村高の多少に応じて三ヶ村ないし六ヶ村を組み合わせて小組合を結成させた。大組合の中の中心的な村を寄場、その村の名主を寄場役人、各村名主の中から人物を選んで小惣代、小惣代から大惣代数人を選んで、寄場役人とともに大組合の村全体を管轄させた。この組合は何領であるかという行政区画には関係なく結成させたのである。村相互間の付合いはこのような制度に推進された面もあると思うが、連繫の精神は、村の共同体の相依相助の精神と同質のものである。
 年貢と関連して、地形、地質、用水の便否などをくわしく書いている。山付の村で南傾斜になっており、山水が田畑に押し込むこと、田は黒真土で大体山間の天水場であること、畑は野土場が大部分で、真土場も少しあるがねばまじりで土地が浅いこと。大麦一反八升、小麦五升位種入する。秋作は大豆、小豆、粟、稗などである。いもや大根なども少し宛作っている。などと書いて、土地の生産力が貧弱であることを強調している。年貢や税金に対する庶民の身構えは今も変らない。これは政治が悪いからである。面白いのは天保の頃にも山には猪や鹿がいて、作物を荒らすので困窮するといっていることである。今では一寸想像出来ない光景である。耕耘機は勿論、自家用の四輪トラックが稲や麦を運んで走っている。百二十数年前はここに猪や鹿が出没していたのである。生活の程度を察することが出来る。これは嘘ではあるまい。つい先日(昭和四十二年十二月十三日)の新聞には秩父の浦山で大鹿を射止めたという記事と写真が出ていた。内田孫三郎さんは祖母(大正十年歿八十五才)が四、五才の時「もめん坊主」を進ぜに行ったとき、猪が出てあらしを吹いたという話をその祖母からきいたという。
 村の金融には土地の質入が主役をつとめていた。質入値段は、田の上が反当二両から一両三分中が一両一分位の相場である。下田下々田は質取主がなかったという。畑は上が反当一両三分から一両二分、中が一両二分から壱両位までとある。田に比して畑の率がよい。石盛は上田十、中田九、上畑六、中畑四である。この数字からすれば上畑は最高一両一分中畑は三分以下でなければならない。田に比して畑の石盛は低かったことが分る。質入値段から推して畑の利用度は田に劣らなかったことを示している。下田や下々田を質にとらないのは、土地の集積を目的とした金融があらわれていることを示唆(しさ)している。  肥料は田畑とも、刈草、落葉等を使っている。「野山」と書いてあるのは、入会山のことである。「村鑑」には「百姓林無御座候」「御林無御座候」とある。つまり百姓の山も領主の山もないのである。そして「秣場三ヶ所」とある。この秣場から入会で草や落葉等の肥料を採取したのである。矢張り入会山が利用されているのである。
 生産暦では苗代は八十八夜頃、田植えは半夏頃までに終つた。早稲を太苗に仕上げた。太苗に仕上げるには根水を張ってその上にもみを振る。ぬり込まず水を張らずに太陽を直接にあてると、太い芽が出る。砂をしくこともある。おくも少し作った。畑は大麦が十月中から十一月せつ迄、小麦は九月せつから十月せつまでに蒔く。これが百姓生活の節々である。この農作の節々にうまく組み込まれて様々の年中行事が行なわれたのである。村持の鎮守様が二つあった。この鎮守様はその地区の守護神という意味のようである。春日社と山王宮である。
 千手堂村の祭典は、春日社が元旦祭、春祭り二月十一日、例祭 四月十五日、山王様 七月十五日、雷神様 七月二十八日、秋祭 十月十七日である。これは昔からの慣例である。年間の季節に応じて同じように耕し、種蒔、手入、とり入れをし、それ等の農作業に合わせて豊作を祈り、収穫を感謝して、祭典やお日待が繰返えされていた。農上り天王様、雷電様、二百十日、二百二十日、おしめり祝いなどのお日待があった。お日待は、原方、谷方、下方の三組に分れて行なわれた。男遊びは村全体で会合した。組内や村内では、各戸の家号で呼び合ったことも他と同じである。例えば
 1川枝んち 2新宅 3原んち 4むしろやんち 5ばくろんち 6隣んち 7中んち 8坂口 9新田 10後坂 11東 12油やんち 13かごや 14上(うえ)んち 15先達 16大上(おおうえ)んち 17新家(しんや) 18隠居 19大門(だいもん) 20日向山 21谷(やつ)大尽 22おくり 23となり 24元屋敷 25しんや 26下(した)んち(二) 27いかけや 28沢んち 29屋敷 30分家(二) 31熊野様 32紺屋 33川坂 34坂下(すべて下に何んちとつけて呼ぶのが常である)などである。いづれも家の歴史に結びついている。ここでも又、となり、しんやなど普通名詞の家号に着目すれば三つのグループに区別することが出来る。これが小地域の共同体である。
 人々は何よりも村の平和と繁栄を念願し、互に協力し合って生活を続けたのである。平和と繁栄の象徴(しょうちょう)は子孫の繁昌と作物の豊作である。村人の生活はこの二つに集約された。これが年中行事にあらわれた。その実例を掲げよう。
▽尻うち 正月十四日 新婚の嫁の尻をうつ風習があった。十四、五才位までの子供たちが親方すじの子供につれられて、新婚の家を訪問する。手に手に「おっかど」の木で作った男根の形のものを持参する。代表の子供「お嫁さんをお借りします」主人は羽織袴で「御苦労様お上り下さい」と挨拶し、嫁は「おたのみします」といって尻を向けて坐す。「大のこご、小のこご、来年の今頃も、男子三人、女子三人、ゾロゾロぶち出せ」と唱え乍ら嫁の尻を打つ。道具は鎮守様に備えてある大小四つばかりの男根をつかうのである。これが終ると子供一同が「おじいさんお孫様が出来ました」といって、たづさえて来た男根を出して並べる。「これは吉兆」とよろこんで子供たちに御馳走を与えて接待するのである。
 これは明らかに子孫の繁昌を祈ったものである。次に豊作の祈願には次の行事がある。
▽粟穂、稗穂ぶらぶら 正月十四日の夜、ぢいさんが湯から上って真っぱだかの儘「あわぼ、ひえぼ、ぶらぶら」と唱え乍らいろりの周りを廻る。するとばあさんも「かますもって参りましょう」これも裸のまま唱和した。
 粟、稗の豊作が生活の安泰を保証するものであった。米や麦にはあまり期待をかけていなかったのである。
 この村には二十二軒の潰屋敷があった。家運衰亡の原因は子孫の断絶(だんぜつ)によるものが多い。粟穂、稗穂の男根、女陰は生命力の象徴である。だいのこごで嫁の尻を打ち、陰部を露出して躍ったのは、天地の創造力、自然の生命力に子孫の繁昌と、作物の豊穣を祈る素朴で、おおらかな神事であった。
 以上のように、千手堂村明細帳には、私達が調達して得た結論がそのまま、矛盾なく現われている。前にもいったようにこの明細帳は特定村のものでなく全く、無作意認意の一ヶ村である。従ってその結果は、他の村々のいづれにあてはめても同じように出てくるだろう。それで私たちは、この調査の結論は、私たちの村々に施して一応正しいものと判断して差支えないということになると思うのである。これが私たちの結びのことばである。(43・1・11)

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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