第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第6節:村々の地名
▽古里村
先ず古里の村名からはじめよう。古代、殊に大化改新以前の時代では、当時の社会を構成している基本的な人々の集団は村落であった。村落は普通一般に「ムラ」と言われ、この「ムラ」に漢字「村」をあてたのである。それでごく古い時代には、村落を「里(サト)」と言ういい方はなかったと言われている。「ムラ」は「サト」よりも古いということになる。「ムラ」は「ムレ」という語と同じく群集という意味をもっている。だから単に土地の一区域という意味より、むしろ人々の集りくらすことを指していた。人々の集りには農業を主とするもの、漁業を主とするもの、農業といっても水田を主とするもの、畑作を主とするもの、田畑の両方を耕作するものなどがあり、この色々の集団が、その生業と土地基盤の制約に従って各地各様に存在した。これが村である。大化改新によって地方制度が整備され、大化二年(六四六)の改新の詔により、五十戸を里とし、里毎に長一人を置くということが定められた。それでこの里というのは、従来の村をそのまま、里と改称したのではなく、極めて機械的に五十戸を標準として、古来の村を分合し、新しい行政区画を定めたものである。この里の性格は古来の村のように自然聚落的な人々の集団ではなく令制上の末端行政区画にすぎなかった。この「里」の名称は霊亀元年(七一五)頃「郷」と改められた。郷は五十戸から成っていたから、単なる名称の改変にすぎないと解すべきである。そしてこの「郷」の下に『里』が設けられた。従ってこの『里』は、前の「里」の下にあった部落に相当するものである。
そこで「出雲風土記」などを見ると意宇郡 郷 一一 里 三〇
島根郡 郷 八 里 二五
などと記されており、この形は全国的に及んでいると説明されている。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
ところが、別に「播磨風土記」によると、里を村といったり、里の中にいくつかの村があったりする例が出ている。制度の上では、郷里の名称が整えられても、人々は旧来の呼び方に従って、行政区画の如何にとらわれず里といい、村といったのであろう。
律令による土地制度の崩潰(ほうかい)と共に、公私の荘園が成立し、その荘園内の区域を呼ぶ名称も新しく起って、荘、保、院、村、厨、郷など様々あったという。この中、保、院、厨、郷などは公領的な性格のものであり、荘や村は私領的のものであった。然し中世以降にはその区別も乱れてあいまいなものとなったという。この経過については触れるいとまがない。
さて前述のように風土記で、村と里とが同じように考えられていることを根拠に、いささか急転直下ではあるが、古里の意味は、古い村、昔から人家の集っていた古い聚落ということにしておこう。次に村内の地名をいくつかあげてみる。
内手(うちで) 地元の人の中には村内に駒込、馬内等馬に関係ある地名があり、近くの吉田には矢崎、陣屋東などの地名もあるから、軍隊が「打出た場所」という意味ではないだろうかと考えているものもある。馬と矢と、陳屋と一応道具建が揃っているのでそう考えることも無理はない。然し別の考え方もある。「うちで」は次にのべるような地形とその地を中心とする周囲の景観によって名づけられた地名である。万葉集の「田子の浦ゆ、打出てて見れば」という山辺赤人の歌は誰でも知っている。田子の浦を通って広い眺望のきく所へ出て見ると、富士の高嶺に雪が積っているという大意である。この「うち出でて」と古里の内手は同様の意味だと思う。内手は古里村の一等地でここに神社が祭られている。高手(たかて)、南向きで、日当りはよく、目の前は村内四十八町歩中の第一の穀取場という水田が開けている。正に視界はるかな快適の地に打出でた感じの場所である。この感じがもとになって、出来た地名だと思われる。
近江国大津町に「打出浜」がある。この名前について、本居宣長は「宇治から山科を経て逢坂までは山ふところなるに、逢坂山を東へ、越離(こえはな)るれば、さざなみの地にて湖に向い打晴れたるはまことに『出』といひつべき地形なり。万葉の歌に、逢坂を打出て見ればなどあるをも思ふべし。後に此あたりを打出浜といふ名あるもその意なり」とある。
古里の内手もこの考え方でよいと思う。然し広野に「ウチデ」、筆者の付近【鎌形】に「ウハデ」「シタデ」の家号がある。「内の方(かた)」「上の方」「下の方」を意味している。併せ考うべきである。
駒込(こまごめ) 駒込はもと、江戸の本郷区駒込で名高い。駒込という名前のおこりは、日本武尊が高いところから御方(みかた)の軍勢を御覧になって「さても駒こみたり」といったので、駒込という地名になったと語る伝説があるそうである。勿論これは信じ難いけれども牧馬の遊ぶ草原を駒込といったであろうということは、牛込などという地名と共に想像できると、地名辞書では述べている。
ところで同じ江戸の牛込の方は新編武蔵風土記稿に「御打入の後、年を追って、武家や寺社の拝領地や、町屋などになったため、たがやすべき田畑は甚だ少くなった。然し昔は広い野原であって、駒込とか、馬込とかいうのと同じように牧場のあったところと見える。込というのは和字で多く集る意味である。牛が多くいたので牛込という名になったのである。」といっている。駒込のあたりも、表土が薄土だから穀物には適さないが、樹木にはよく、庭樹や、盆栽の草木を造って生業としているものがあった。そんなわけで開発もおくれ、江戸府内に編入されたのは明暦以後であるという。牧場に適していたことが分る。以上他所の地名の説明が長くなったが、古里村の駒込も、これ以外の説明には出られないと思う。
さて然らば、この駒込はいかなる牧場であったか、「延喜式」には、武蔵国に四ヶ所の御牧(勅旨牧)、二ヶ所の諸国牧の官設の牧場があったとあるが、これに結びつけるわけにはいかない。しかもこれは軍団制の崩壊とともに衰微してしまった。これに代って現われたのが私牧である。これは武士団の発生と成長の上に大きな基盤となったもので、当時の戦闘は騎馬戦が主体であったから良質の軍馬をもつことが武力の眼目であった。それで官設の牧場の現地管理人である別当なども、その地位を利用し優良軍馬を手に入れて私牧を造成し、武蔵七党といわれるような武士団が発展したのである。秩父氏や武蔵七党中の横山氏、西氏もこの別当の家柄である。駒込はこのような武士団の、ある一派の牧場だったのであろう。
馬内(もうち) 駒込が牧場であるとすれば、馬内も馬に関係した地名として説明したいがこれを根拠づけるような資料が得られない。地元にも格別の伝説等もないようである。「風土記稿」にはモウチとあって馬内の文字はない。
御領台(ごりようだい) 御料台と書きかえれば徳川幕府の直轄地天領のことで、大名や旗本に分与した私領に相対するものである。古里村は正保年間(1645−1648)の記録に、代官の支配所と旗本の知行地が交錯して存在したことが「風土記稿」に出ている。すなおに御料台と解してよいかもしれぬ。とすれば新らしい地名である。
元全町(がんぜんまち) 善久(ぜんきゅう) 道参山(どうさんやま) 明時(みょうとき)など僧侶か修験者の名前ではないかと思われるような地名が数種ある。地元にもそのいわれがつたえられていない。後日の研究にまつことにする。