第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第4節:地形と地名
「ヤト」と「カイト」
「谷戸」についてはまだ問題がある。谷戸の名には、殆んど「ガ」をつけて、「何々ガ谷戸」といっていることである。これが問題と考えられるのは、この地方にカイドという言葉があるからである。カイド(キァード、ケェードなどと発音している)は、屋敷内の道、町村道(公道)から分れて、その屋敷内に通ずる道である。その家の専用の通路で、表の、とぼ口に通ずる道である。カイドという発音と道であるという事実に示唆(しさ)されて、人々はこれを街道という風に考えている。然しよく話して見ると矢張り変だという。つまり街道という以上は大規模のものでなければおかしい。今なら国道や県道なら街道だが、町村道では街道と考えない。個人の屋敷への、はいり道が、街道とは大げさであるという。又、「カイドの道」といういい方をしているが、カイドが街道なら、それに道をつけることは重複して理に合わないというのである。そこで思いつくのは「カイド」は「垣内(カイト)」ではないかということである。垣内というのは屋敷のある一定の区画の場所を指して呼ぶ言葉である。これは、はじめある有力者の占有区域を意味し、その区域内には被保護者も住んで耕作をしいるというような大規模のものであったらしい。然し後にはこれが小区画の地名にもしばしば用いられるようになった。それと共に、もとの「カイト」の意味も、だんだんに曖昧(あいまい)になったし、呼び方も一番古いのは「カキツ」で、それから「カイツ」「カイト」となり、更に変化して地方により「カイチ」「カクチ」「カイド」というようになった。それで漢字にあてれば、貝戸、海道、皆渡、開土、外戸などとなっているのであるという。私たちのカイドもこれに当るものである。カイドは垣内で屋敷の意味である。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
街道という字につり込まれて、屋敷へのはいり道と考えたり、街道の道といっても重複ではなく、実はおかしくはないのであるが、それをおかしいと考えたりしたのである。さてこのように、カイドは屋敷であるとすると、次は「何々ガ谷戸」との関連である。私たちは、前述のように「谷戸」は地形の名であるとしたが、実はこの「何々ガ谷戸」の中には「何々ガイト」というべきものもあると考えるのである。つまり屋敷の名も「何々ガ谷戸」の中にあるということになる。例えば前にあげた殿ヶ谷戸、御所ヶ谷戸、宮ヶ谷戸、堂ヶ谷戸というような類は一般常民から仰ぎ尊ばれるような立場にある人物や、神仏などの、住居し祀られた場所だろうということは誰でも考えつく。とすればこれは「トノガイト」であり「ミヤガイト」である。何々ガ谷戸の中にはこういう意味で呼ばれたものもあったにちがいないと考えられる。そして前述のように「谷戸」は居住にも耕作にもまことに都合よい優れた土地であるから、このすぐれたよい土地を先ず有力者や神仏が占拠するのは当然で、谷戸と垣内は切っても切れない間柄のものであるといってもよい。谷戸というよい土地であるがために、垣内が成立したのである。谷戸は垣内の土地基盤であった。そしてこの関係が両者の区別を混然とさせて、両方とも同じく「何々ガ谷戸」と呼ぶようになったのだと判断するのである。こう考えて来ると、何海(街)道の地名も又、「垣内」のあて字ではないのだろうか。
将軍沢の越生街道はあまりにハッキリしているので、しばらくおき、観音海道、順礼街道なども坂東三十三ヶ所の第九番の礼所、慈光山から第十番の岩殿観音に通ずる順礼の街道だといえばそれでもすむが、「カイト」の名ではないかと一度は疑って見る必要もあると思う。とくに川島の地名、市海堂、馬街道にいたっては「カイト」の性格が可成り強く感じられる。鬼鎮神社の神事に関係した馬や市の「垣内」という推察が出て来ても、それ程不自然ではないと思うのである。