第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第9節:鎮守様と共同体制
手白神社
次に吉田村に「村の鎮守」の記載がないのはどういう理由であろうか。書いてないということは、鎮守という一村を統轄する神社がなかったと考えてよいだろう。吉田村には、峯、手白、五竜の三明神と、六所、天神の合計五社が存した。終戦前まで手白神社が村社の社格をもっていた。従ってこの神社がさしづめ村の鎮守の地位を占むべきものであったろう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
ところで鎮守様の成立は、はじめはある血縁団体や地縁団体の守護神であったものが、その団体の勢力が発展して村全体にひろがってくると、その守護神も、自然、村全体の信仰をうけるようになり、そして村の鎮守様と称せられるようになったり、又村の共同体が成立するに従って、この村全体の守護神が必要になってくる。そして、村の中のいくつかの神社の中で、最も神格の高い神社がその位置につく、そして鎮守様というようになる。このような経路をとるものと思う。
さて小林文吉氏によれば手白神社はもと小林一族の守護神であり、中ぐるわの神社であった。してみると手白神社は、今の人たちの記憶にのこる時代まで、村の鎮守の段階まで上らず、まだ差別的な取扱いをうけていたことになる。ということは前述の考え方に従えば、小林一族が全村的に勢力をのばして村を統一するという立場に至らなかったか、又は、手白明神の神格が、断然他の神々を圧して強力であったというわけにはいかなかったかの、いづれかであろうと思われる。上吉田には、他に峯明神(陳屋東、東ぐるわ)五竜明神(西ノ谷、西ぐるわ)下吉田には六所社があって、それぞれその地域の守護神とされていた。江戸初期の検地によって、制度の上で吉田村は成立したが、この村は吉田村の検地帳で見たように大、小百姓の差が著しくなく、中位の健全な百姓によって形成されていた。極端に有力な百姓が村の実力者となるということでなく、同じような百姓がいくつかのグループに分れて結合し、それが集って一村をつくっているという形であった。この事実が神社の信仰にも反映して、グループ毎にそれぞれの神を戴いていたので、一つの鎮守が成立するという段階に至らなかったものと思う。又、これと同時に、手白、峯、五竜とも祭神不詳とあるように、格別他に勝った神格という裏付けもなかった。これも又、併せて鎮守様の出来なかった理由となっていたと考えてよいだろう。
而して明治四年(1871)、手白神社は祭神を手白香姫命として村社の届を提出した。手白香姫命は継体天皇の皇后である。勝れた神格を得たわけである。大正二年(1913)、六所、峯野、琴平、五竜、厳島の五社が合祀されて神社の統一が実現した。私たちはその背景に吉田村という村落共同体の、成立や構造や推移が存在していると考えたいのである。
さて以上のように、村の神社と、村の共同体制の関係を考えて来たわけであるが、結論をいえば村の共同体制は神社の崇敬によって固められ、村の共同体制が固まるに伴って、全村的な強力な神社があらわれて来たということになるわけである。鎮守様は村の共同体の紐帯の役割をして来たということである。