ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第8節:村の共同生活

年中行事

 百姓の仕事は全てが天候相手(あいて)である。田も畑も山もその仕事はすべて天地自然の運行に歩調を合わせて行なわれる。四季の移りかわり、暑さ寒さ、雨や風は、毎年毎年時をあやまたずにめぐって来た。この季候や天候の動きに従って、毎年毎年農作業がくり返えされたのである。
 村の人々はみんな同じ時期に田植えをし、同じ季節に稲刈りをした。苗代作りも、田の草とりも、その時期はきまっていた。蚕の掃立も、上簇も、麦蒔きも、麦刈りも、大小豆、栗、きび、そばなどの雑穀や、ごぼう、人参、大根などの野菜類の播種(はしゆ)や収穫なども、みんな同じ歩調で行なわれた。
 私たちはこうして村の人々が、同じ時期に、同じ仕事を、同じような仕方で、くりかえし乍ら、何百年かの生活を続けて来たという運命が、又、村人たちの生活を共同体制に決定づけた力であると考えるのである。たとえていえば、笛や太鼓の囃(はやし)につれて、手振りおもしろく踊る盆踊りの若者たちのように、天地自然のリズムに合わせて生活する百姓たちは、その心も体もみな同じように一致して動いていたのである。村の共同体制は、百姓の生活から発した運命的のものである。自(おのづか)ら生れ出たものである。領主の政策や、仲間の約束に基いておこった人為的のものとは異ると思うのである。
 百姓の生活をピラミット型に見立てれば、その頂点にあるのは農作業である。そしてこの農作業を支える基盤の生活が厚くひろく裾野をひいている。その一つが年中行事である、だから頂点の農事が自然のリズムに従って動いていたと同時に、年中行事も全く同じ調子でその動きに従った。年中行事も村の共同体制の基盤であり、又、共同体制の下に年中行事が行なわれたのである。私たちは年中行事をこのような角度から見たいと思うのである。  先ず私たちの村にはどのような年中行事が行なわれたかその事実をしらべてみよう。これは編纂委員座談会の記録である。

年中行事の座談会
(年末と正月の行事)

▽松かざり
  藤野(豊) 一夜松をきらうので、暮の三十日までに松迎えをする。その日は別にきまっていなかった。年男が明けの方の山に出かけて伐ってくるのである。松をかざる場所は、家の前に一組、その外井戸、便所、土蔵などでその他日頃世話になっている建物の前に立てるのが通例であった。門松は神のよりましであるという考え方はなかったようである。
簾藤(惣) 松迎えは十二月二十八日までの吉日をえらんで行なう。二十八日に煤はらいをして、八、九、三十日の三日の間に松かざりをする。門松は一丈三尺五寸の松杭に、五階の枝松を三本結びつける。これに竹と榊をそえたもので、七尺の間隔で二本立てたものである。井戸その他の場所は三尺五寸の杭に松、榊などを一本宛結びつけたものであった。 (荻山氏は、昔は枝松でなく心松を使ったが、四十年位前から枝松にかわった。又、一丈三尺五寸の杭は皮をむいたという。永島氏は、杭は堅木一丈三尺五寸、松は枝松であったと語った。)

▽年棚、しめ飾り、大みそか祓い
  小林(文) 煤はらいは十二月十三日と定めてあり、どこの家でもこの日には、家の中を掃除し、神棚をきれいにした。そして座敷には床を入れた。松迎えはおそくとも三十日までにすませた。注連や、幣束は神主にたのんで作って貰った。大晦日には大みそか祓いをした。燈明の道具をよく磨きあげて、これにお燈明をあげ、風呂に入って体を清めてからお祓いをした。この幣束は、三本辻へ灰をおき、その灰の上にこれを立てた。大みそか祓いは夕方から行ったが、さらに元日は朝湯を立て、湯に入ってからお燈明を上げることになっていた。朝三時おきをして湯を沸かしたから、夜明けの頃にはこの行事は一切すんでいた。朝湯は三ヶ日続いた。近所隣で交替で湯を立てたのである。
荻山 神棚は毎年新しく作った。堅木を割って一尺五寸位の長さにし、真四角に組んだものである。これを恵方に向って釣した。棚の上には、まきわらに幣束を立てて安置し、これをよりましとした。ここに降臨した年神さまは正月の卯の日の卯の刻昇神するまで、ここに止った。それでその間中、朝湯を立てて、身を浄めたのである。(永島氏の話では、年棚は特別に作ってあり、廻るように出来ていて、まわしてその年の恵方に向けたという。)
小林(文) 年棚には四本の松や榊、竹などをかざり四方に注連繩を張り、幣束は一方の柱に結びつけた。
田中(勝) 年棚にはおみたま様を祀った。一つの棚の両端に幣束を分けて立て、その片方をおみたま様といった。おみたま様を祀っている間は仏壇には供え物をしなかった。(小林氏によれば、お供えを二かざり上げて、一方は年神様の分、一方はおみたま様の分であると言っていたという。)

▽新年の食生活
  簾藤 小正月がすむまでは小豆を煮てはいけないことになっていた。それで暮のうちにあづきを作っておいた。……永島氏も元日から七日間は小豆を使わぬ慣例があったという。……又、里芋や大根などの煮ものも、七草までの分を全部作っておき、野菜物一切新らしいものは使わなかった。
 三ヶ日間の朝は雑煮餅ときまっていた。雑煮は年男がつくった。豆の木を焚いて、はじめ火をたきつける時には燧(ひうちいし)で「きりび」をかけた。味は必ず、おとし味噌をつかった。(小林氏によれば、三日間は朝はそば切り、昼と夜は御飯だったという。)
森田 卯の日に、お炊上げをした。年男が卯の日の卯の刻に起きて飯を炊くのである。そしてこの一釜を盛って年神様に供えるわけである。(小林氏は釜の蓋であげたという。)
安藤 正月の卯の日までの日数に応じて、竹箸を作った。卯の日が三日なら三ぜん、十二日なら十二ぜんという具合である。(十二日間というように年神が長居の年はよくないと考えられていた。)
高橋(与) 節(せち)にうどんを打ったが、それまではうどんは打たぬものとしてあった。(簾藤氏も同じ) (節は節振舞といって、正月中に各家々で日を定めて、親戚や知人などをよんで互に饗応しあった椀飯振舞「おうばんぶるまい」ともいった。本県ではせちを「おうばん」ともいう)

▽七草まで
  簾藤 山初めは、木鎌、のし餅、おさごを持って山に出かけた。先ず木鎌で木の枝を伐り払う、そして木の葉の上にのし餅とおさごをあげる。餅の隅を欠く習慣になっているが、そのいわれは分らない。半紙を割いて幣束を作りこれを松の枝に結ぶ。(二日に行なうのが通例であるが、藤野氏は六日に山初めをしたという。)畑の仕事はじめは、麦畑の縁(へり)の方のさく切りをして、餅とおさごをあげ、松の枝に幣束をつけて畑にたてた。
小林(文) 二日には歌い初めをして高砂を謡った。
簾藤 二日の夜はよい初夢をみるために、「長き世のとをのねふりの皆めざめ 波乗り舟の音のよきかな」の歌を半紙に書いて、これを枕の下に入れて寝た。初夢は一富士、二鷹、三なすびの順に目出度いとされた。
藤野(豊) 七草粥はなずなを七草といい、これは必ず入れたが、他のものは適当な野菜をつかい、別にきまってはいなかった。七色にすればよかった。この野菜ものは、五日に採取することになっていた。七草なずな唐土の鳥が、日本の土地へ渡らぬ先にストトントン≠ニ唱えながら、七草をきざんだ。(簾藤氏も同じ)
中村  七草粥の水を指につけておくと、いつ爪を切ってもよいとされた。爪を一日、外出の前、夜など切ると不幸に見舞われるといわれた。
簾藤  七日に松飾りをかたづけた。松の芯を杭の穴にのこしておいた。これを若松といった。その他は焚木にした。(荻山氏は十四日に門松をとり去り、杭の穴にオツカドの木で作った三ツ花をあげたという。田中氏は、これをヒエボ、アハボ、小林氏は若松といっている。)

▽倉開き
  小林(文)、中村 十一日に倉を開けて、米搗きをした。必ず一臼搗かなければ遊ばせないことになっていた。米一はり搗いて遊ばん倉開き≠ネどという句があった。
簾藤 この日に鏡餅を細かく切った。これを二十日の恵比須講の日に雑煮にいれて食った。(安藤氏は、二十日までとっておかないで、食べてしまったという。)

▽小正月
  簾藤 十四日は団子つくりをした。年神様は直径七・八糎の団子でこれを梅の若枝にさしてあげた。又、繭形のものは一升桝に盛れるだけ盛って年神様にあげた。
 十六繭玉といって、年神様にあげたのと同じ大きさのものを桑の枝にさして太神宮様の前にあげる。これは蚕影山にあげる意味である。桑の木は、こぶしのようなところから伐り、その枝に団子をさして、鉄びんのつるのように枝を曲げた。
 お釜様その他には丸い団子を、そねの木にさしてあげるのが例であった。
森田 物つくりには、粥かき棒をつくった。これは十五日の小豆粥をかきまわす道具である。オツカドの木をつかい、棒の先の方を四ツ割りにする。つまり上の方が開くようにつくるのである。又、オツカドで粥を食べる箸をつくった。真中を太くして両端が細くなるように削る。家中この箸で食べる。粥かき棒は苗代の水口に二本立て、その上に半紙をのせ、これに焼米をあげる。この焼米は苗代に振った残りの籾をつかってつくる。振りのこりの籾をふかし、これを煎って焼き米とし、籾穀を臼でひいて除去したものである。(地名の由来中、焼米田参照)
藤野 粟穂(あわぼ)、稗穂(ひえぼ)は堆肥場、倉庫などに立ててあるのを見た。栗穂には花削りがついており、稗穂にはこれがない。粥かき棒で小豆粥をかき廻し、その先に小豆が沢山つくと、その年は豊作であると信じられた。
小林 物つくりには、農具の形を真似てつくった。例えば鍬、鎌、おんぐわなどであり、又オツカドの木で、大小の力を作り子供の玩具とした。(藤野氏は杵をつくって、柿や梅や桃や、果物の木を叩いた。これは生木ぜめといって、果物をよくならせるためであると話した。)
安藤 十四日には子供達がさえの神を造った。子供達の家から、門松や注連かざりを集め、これを材料として小屋をつくる。木の足りないときは神社の樅の枝をとって来た。高さは一丈五尺、径八、九尺の小屋である。子供達はこの中で、火を燃してあたっており、若夫婦が通ると、繩を張ってとおせんぼ≠する。大てい新郎が金をくれるので、これで菓子を買ったり、こんにやくを買って煮てたべたりする。これが小屋の中の仕事である。小正月には新郎が嫁を送って、嫁の実家に行くのが例となっていたのである。さえの神は十六日に焼却した。樅の枝がはねてパチパチと燃えるのが子供達の印象に深くのこった。

▽小正月過
  簾藤 正月と盆の十六日には厩肥(うまやごえ)を出した。この日に肥を出しておけば一年中いつ肥出しをしてもよかった。禁忌の日があったのである。土用は魔日でなければ肥をとることは不吉であるとされていた。それで十六日には四隅のところだけでも肥をとるのが慣例であった。
中村 十八日の十八粥を食べれば百足虫や蜂に刺されても軽く治るとつたえられた。十五日の初盛りをとっておいて、十八日に食べてもよいとされた。
簾藤 二十日は恵比須講である。十九日に柳の箸をつくる。これは直径七、八分長さ八寸位のもので、恵比須様から家族の分までつくる。二十日は太神宮の下をとおって(ここは平常には、とおらないことになっている。)太神宮の下(しも)の柱の下に恵比須様をまつる。ふだんは勝手の戸棚の上にあるのをここに移すのである。
 朝は鏡開きの餅で雑煮をつくり、盛れるだけ沢山盛って供える。葱二本根のついたものを、根ごと洗って、根を東の方にして一対供える。又柚、蜜柑など黄金色のものをあげる。恵比須様に供えたものは、年男が全部食べてしまい、他人に与えない。晩は高盛りの飯をあげ、これも年男だけで全部食べてしまわなければならないとされた。
森田 右と大体同じであるが、年神様の団子を雑煮にしてあげ、これを若い者が食べた。若い者に力がつくと考えた。二十日で正月は終ると考えられ、食物の外に藁細工や馬の腹帯などつくって供えた。二十日正月ともいった。
安藤 十六繭玉を供え、硬貨、貨幣など金銭を成可く多額にあげた。倍になると信じた。

▽箸について
  簾藤 正月はかずがらの箸をつかった。径五分位の楮の木から皮をはぎとったものである。恵比須講が済むと普通の箸に戻った。かずがらの箸は御幣などと共に氏神様の後に納めた。
小林(森) 十五日におつかどの木で作った箸をつかって食事をした。あとで男の使ったものは十文字にして結び、束ねて屋根裏に投げて、こここにつき刺しておいた。女のものは束ねて、流元の水がめのそばに刺しておいた。

(二月の行事)

▽節分前後
  森田 二月一日、次郎の朔日は黄金で祝うといわれていた。それで粟餅を搗くのが例であった。
 節分の夜は豆の木を焚いて豆を妙った。鰯の頭を豆の木にさして焼いた。つばきをつけ呪文を唱え乍ら焼いたのである。作物の名に虫の名をつけて、例えば菜の虫もたかるな、大根の虫もたかるな、よろづの虫を焼き払らえ≠ニ繰り返えした。(小林文吉氏によれば種々の虫の名をあげて、最後に作物につく四十二の虫の口を焼けと唱えたという。)鰯の頭は四方の出入口に刺した。
馬場 妙った豆を囲炉裡の灰の上に並べて焼き乍ら、豆の色や煙の有様で、正月から十二月までの天候を占なった。十二個の豆の中、煙の多い豆にあたる月は風が吹く、水分の多い豆の月は雨が多い。豆が黒くなるとその月は旱魃になるなどといった。
中村 福茶を飲む時には冬至の柚を食べた。冬至には柚を風呂と縁の下と味噌の中に入れた。味噌の中のものを出して食べるのである。これは厄除けになるといわれた。
簾藤 豆まきは先ず年神様の部屋からはじめる。恵方からはじめて、最初福は内≠アれが東北なら次は時計の針のように廻って、東で鬼は外%で福は内$シで鬼は外*kで福は内≠ニ唱えて終る。次に太神宮様、荒神様、お釜様、氏神様、厩屋などにも豆をまく。

▽二月八日
  中村 八日節句という。夜、めかいを竿の先にかぶせて外に出しておく。鬼が来てめかいの目を数えている中に頭が混乱して、悪いことが出来なくなるのだという。これは十二月八日にも立てた。

▽初午
  簾藤 初午には稲荷様に豆腐か油揚げをあげる。この日の料理には「すみつかれ」をつくり、家族の者がたべる。これは大根おろしの中に炊った豆、ごまめなどを入れ醤油で味をつけたものである。「すみつかれ」は初午以前はつくってはいけないが、その後は自由だとされている。
森田 稲荷様に繭玉をつくってあげる。この日は鍛冶屋は仕事を休むことになっている。又、三の午まである年は火災が多いといわれている。

(彼岸の頃まで)

▽榛名講のお日待
  荻山 男あそびといった。長男が十七才になると酒を一升買って仲間に加入した。だから昔は十七才以上の当主だけであった。二日間にわたって飲み食いをした。旧二月十五日が定例日であった。坐席は廓の名望家が上席についた。年令に関係なく家の格式によったのであるが、今は早く出席したものから順に坐るようになった。
安藤 この会合では謡曲高砂、四海波、玉の井、鶴亀、千秋楽の五つを必ずうたった。酒は大盃でのみまわした。
田中 三月一日に催した。十七才になった長男は懇意の人の紹介によって、この席で一人前になったという挨拶をした。部落の役員をくじ引できめた。座敷は宿の家の一番よい部屋をつかい、坐席はくじ引できめた。(藤野秀谷氏は榛名講からは、ぬけたいと思ってもぬけられないと話した。)

▽頼子講
  荻山 普請などで多額の金が必要となった場合などに頼子講が結ばれた。講親になる人は、頼子講をしたいから援助してほしい旨を、親しいつきあいの人達に依頼してまわる。その了解が得られると、講の発起者となって賛成者に集って貰う。仮に五百円必要だとすれば、一人当り十円宛として五十人の講員がなければならないことになる。最初はこの五百円を全部講親が借りる。無利子である。第二回目からはくじやせりで講金をとった。年三回会合を開き、講親が酒食を出して懇親会を催した。関係者の親睦や、助け合いに役立った。

(田植えまでとその前後)

▽籾ふり
  小林(文) 苗代の水口に十五日の粥をかき廻した棒を立てた。(前出)
簾藤 焼米をあげるのは、鳥の口をやいて封ずるという意味である。

▽虫よけ、災厄よけ
  小林(文) 「卯月八日は吉日よ、神さげ虫のせいばいぞする」と唱えた。
 神さげ虫は蛇のことである。正月には村境に注連を張り、大きな草鞋(わらじ)を釣り下げた。勝田と吉田の境に竹を立て注連を張って道をしめきった。厄よけと考えていた。
森田 藁で作った三本の繩を、部落の境に張った。これは今でもやっている。
福島(新) 先ず神主におがんで貰ってから、半紙を縦に切ったものを竹にはさんで立てた。又馬の藁ぐつの中のないものを作り、その中へ藁でつくったものをとおし、繩でしばった立てた。馬の藁ぐつの、中のないのは女淫を型どったものである。これは村全体の行事で、数年前まで田植えのあとで行なわれていた。

▽夏祭り、お神輿
  森田 子供たちにお神輿をもませて、神官が祓の玉串をもってその後について行く。途中、家の前で神輿を落すと、その家を神官が祓いきよめ、家の人は菓子などを出して子供達を接待した。それでどこの家でもお供物の菓子を準備しておいた。
安藤 お神輿があばれると、田の中にねじ込んで、一枚全部踏みこたねたり、家の障子を突きこわしたりした。このような家は、吝嗇とか、変人とか、威張っているとか、日頃近隣からよく思われていないものであった。あらかじめ酒肴を用意して待っている家もあった。お神輿は各戸から若い衆が出てかつぎ、尾根を中心にして、古里の半分が参加した

▽田植え
  荻山 籾を振ってから四十二日目を苗忌といって、この日は田植をしてはいけないことになっていた。これは田植えを手伝い合うのに都合よく出来ていた。苗忌の日は近隣皆一致していたわけではないから、この日はお互いに他の家の田植えに協力した。
簾藤 植初めには、まんぐわを洗ってお神酒を上げる。さなぶりにも同じようにする。(安藤氏は、植えはじめに一杯やり、終ってまんぐわ洗いをしたという。)
中村 田植えの最後は、主人公が三株植える。これが終ると、のこりの苗を洗って、お釜様に進ぜる。
小林 一つのくびりを水でよく洗い、これを二つに分け、一方を更に六つに分ける。これを苗代の水口に植え次にすぐそれを抜きとって、他の一方と合わせて一緒にし、洗いなおして家に帰り、又二つにしてこれをお釜様にあげる。
簾藤 田植えの期間中、主人は風呂に入ってはいけなかった。
市川(紀) 苗代には、もち米は作らなかった。苗代は親だから、親を餅についてしまうという意味であった。

(お盆の頃)

▽七月一日
  簾藤 墓場の掃除をはじめる。饅頭をつくって重箱に入れお寺に献じた。お寺では釣鐘(つりがね)をつき、盆のお経をはじめる。盆供がはじまった。

▽七夕
  簾藤 稲の朝つゆを集め、これを大皿に入れ、その上に茅二本を橋にわたす。この水で墨をすって七夕を書く。

▽盆
  簾藤 新盆の時は盆棚を二つ作る。一つは小さい。茶の間の隅につくる場合が多い。四角なきりだめの杉の葉で四隅を飾ったものを、棚の下におく。きりだめの籠の中には、芋の葉、蓮の葉を入れ、それに供えものをして盆中さげない。棚の上は成人の霊、下は精霊様である。
山田(巌) 子供の霊には、棚の下に供えものをあげる。
森田 棚参りは近所や親戚を廻る。お静かなお盆でおめでとう≠ニ挨拶する。このおめでとうの意味は、お正月のおめでとうと同じ意味である。無事に先祖祭りができておめでたいという意味である。(簾藤氏はおめでたいというのは嬉しい気持をあらわしている。盆と正月に期待をかけて働いて来たからであるという。)

▽再び箸について
  福島(新) 麻幹(をがら)を買って来て、これを折って箸を作った。新らしい箸をつくるものであるという観念があった。
永島 使った箸は流(なが)しの下の地面にさした。
田中 みそ萩を箸に使った。十三組の箸をつくった。麻幹を使う場合が多かった。
小林(文) 山仕事などに出かけ、箸を作って弁当を食べたあとは、必ず折っておけという慣習があった。

▽お留守居様
  簾藤 仏壇には阿弥陀様が本尊としてまつってある。この本尊と先祖はお盆には客に来ないで留守居をしている。
山田 位牌の中で一番古く字の分らないものが残っている。
小林 新宅では、分家した人が先祖である。それよりも古い先祖は分らないのがある。その分らない先祖が留守居をしている。

▽田畑を案内
  藤野 お盆の時先祖を案内して耕作地を見て貰う。
馬場 提灯をつけ、線香をたき乍ら田畑を廻る。(これは吉田、志賀も同じ)

▽土用
  小林(文) 土用三日までに田植えをすれば、米がとれるといい、又、土用三郎に雨だと、その年は米がちがいだといった。土用の魔日は、卯、辰、申でこの日に肥出しをした。(小正月過参照)必ず土用餅を搗いた。(馬場氏は丑の日に薬湯を立てたという。)

(秋から冬にかけて)

▽八朔
  (八月一日は、嫁や聟が実家へお客にいった。土産に赤飯と生麦(しょうが)を持って行くのが例であり、帰るとき実家からは返礼として箕をかえした。)

▽十五夜
  森田 十五夜、十三夜の供えものは、子供達にとられた方が縁起がよいと考えた。蚕があたるといわれた。
中村 片月見をすると、次の年に月を見ない人が出るといった。然し十五夜の供え物を少しとっておいて食べればよいとされた。

▽十日夜
  簾藤 十日夜の前日は亥の子であり、牡丹餅をつくった。一升の米で九つという大きいもので、これを一升桝に盛って上げた。一升桝を伏せて四つ宛二段に積み、最後の一つをその上にのせるのである。 (十日夜は藁でっぽうで、もぐらの上をたたいた。地面を叩くと大根がのびるといった。藁でっほうを柿の木に吊るすと柿が豊作になるといった。)

▽刈上
  (刈上げには牡丹餅をつくった。稲を家まで運びきると、米の飯を炊き、馬にも、かいばにまぜて、米の飯を食わせた。

▽おかま様
  (十月の初旬、中旬におかま様をまっる。この頃風が吹くので、おかま風にのつってくるともいう。恵比須、大黒のそばに祀ってあると考えている家が多い。勝手元に注連を張って、おかま様といっている家もある。又、かまどの前に注連や幣束を飾り、おかま様とする風習もある。かまどの神は荒神様といって、おかま様とは別である。おかま様は子供が多く、よい縁結びをするといい、神無月でも子供のことが心配で、十五日には必ず一度戻ってくると信じられた。農家では親しみぶかい神となっている。)

▽大師粥
  (十一月、四日、十四日、二十四日の三回大師粥をたく。粥の中には団子を入れる。はじめは粟、次は小麦粉、最後は米と順次団子の種類をかえる。)

▽冬至
  簾藤 柚子湯をたてる。朝暗い中に初水を汲み、びん詰にし生紙(きがみ)で密封し荒神様に上げ、一年中そのままおく。(柚子を縁の下に投げ入れ、又味噌潰にすることは前に出た。)

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲