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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

流地証文

 質地証文には必ず「年期明右之本金返済仕候ハバ書面之地所無相違御返可ヒ下候」と書いて質地の返還について念を押している。質入地は年季明けの後果して順調にもとの地主に返ったのであったろうか。私たちは、大体に於て証文記載の通りに事が処理され解決したものと思っている。これは鎌形の名主源兵衛の加印した質入証文の数々が小林(筆者)の土蔵から出て来たことにより知られることで、質入証文が質取主の手を離れて名主の家に保存されたということは、借金が返済され、土地と証文が質入主に戻ったことを示している。前記遠山村磯右衛門、太郎丸村宗順の質地証文にも「質地請戻□□残金四両壱分ト永四拾八文也内金三両三分請取残り金弐分ト永四拾八文不足勘弁 如斯証文三通相返し申候」と裏書きしてあることでもこれが分る。この質入証文は、各村の名主の家をたづねたら相当多く発見されることと思う。証文記載のとおり質地がもとの地主に返ったと考えることにはもう一つの大きな理由がある。前掲の「又質」の添証文にもあらわれているように質入によって、土地の支配(使用収益)は質取主の間を移動していっても、高請主名請百姓の名儀は変らないのである。例に上げた証文の善八分 忠三郎方よりの記載からこれは善八、忠三郎の高請地であることは動かないのである。これは百姓にとって重大なことであった。何故なら名請地を持つことは、一人前の百姓、つまり本百姓の必須要件だったからである。名請地をもって検地帳に登録されれば本百姓であり、然らざれば水呑百姓である。従って名請地の得喪(とくそう)は百姓の人権に関する問題だったともいえる。だから最後まで名請地の名義は固執(こしゅう)され、守り抜かれなければならなかった。多くの質地が、恐らく年季明けによって、もとの地主に戻ったのであろうと考える理由は、ここにあるのである。
 又行政面から見ても、永代売を禁止した幕府であるから、永代売りと同じ結果をもたらす「質流」についても、禁令を出している。享保六年十二月の禁令の中に

「……田地永代売御禁制ニ候処 おのずから百姓田地ニ離候事ハ永代売同様之儀候条 付而者質流地ニ不成様 只今迄質入いたし置候分……質年季明候ハハ手形仕直させ小作年貢ニ而茂 前方極置候分ハ 一割半利積ヲ以 元金之内江加へ 其後者無利足之済崩し之積 金高一割半ツヅ年々返済之定手形申付 元金切次第 幾年過候而も 地主江 相返候様可致 未だ年季懸有之分ともに訴出候ハハ 是又向後右之通 利分一割半之積改之 手形仕直させ可申候」

という部分がある。つまり質流を防ぐために年季明けとなり、元金が返済出来ない時は、元金の一割半宛を年賦で返済する。直小作をしている場合は、利息を元金の一割五分ときめて、これを元金の中に繰り入れて改めて元金とし、一割五分宛年賦で返金し、この元金がすみ次第地所をもとの地主へ返却しろというのである。幕府も本百姓保護の政策をとったのである。
 これらのことから考えても、名請地を維持したいという百姓の希望は傷けられなかった。杉山村の「田畑惣高帳」や「元石帳」を見ると、名前だけで田畑の記載のないものや、あっても僅か拾何歩というのが数人散見される。これは現在年貢を負担している田畑がないということで、名請地は他の人が耕作していることを示している。名請地をもっているから本百姓として村の帳簿に登録され、又、やがて田畑が戻って自ら年貢を納める時期の来ることが予想されているのである。念のために「元石帳」から引例しておこう。三右衛門、武兵衛、惣兵衛は全くブランクで記載がないところが
 惣七の部に

  溝堀 九畝拾歩    惣兵衛分 甚右衛門江入

 寺の部に

  岩花 四畝拾弐歩   惣兵衛分
  岩花 三畝拾四歩   惣兵衛分
  溝堀 六畝 九歩   惣兵衛分 甚右街門より入
                 (以下略)

 右【上】のように惣兵衛分、惣兵衛の名請地は、他の百姓の支配下(年貢納付)にあるが、惣兵衛の本高として生きているのである。三右衛門や武兵衛についても同様であるが引例は略す。
 右【上】のように質入地は年季明と共に地主に戻るのが原則であった。そしてそれは割合に円滑に行なわれたと想像出来る。杉山村の土地移動の頻度(ひんど)はこれを証拠立てている。質入や質地の返還が円滑に行なわれるということには、社会経済的な基盤が考えられる。つまり田畑の生産力が、まだ低位にあって、多くの土地をもつということが必ずしも富の集積に結びつかないということにあったと思われる。生産物が年貢諸役と、翌年への再生産費、生活費で残らず喰いつぶされる状態では、多くの土地を集める魅力はうすいのである。このような経済事情ともからんで村の共同体制の下では専ら相依相助を目標とする質入れが行なわれていた。これがこれまでに見て来たところである。然し農業技術が進歩して収穫が増加し、年貢や再生産の費用の外にある程度の作徳が残るということになると、この事情は若干の変化を免れなかった。このことを少しみておこう。つまり質地の小作制度も生れ、直小作といって、質入人が質地をそのまま耕作して小作料を納めたり、別小作といって、質地を地主とは別の百姓に耕作させて小作料をとったりすることが出来るようになってくる。こうなると土地の集積は富への集積につながってくる。そして、質流の禁令は幕府の意図のようには実行されず、百姓側でも従来の慣例を持ち続けることが難かしいという現実が生れて来た。
 前述の享保六年(1721)の、質地流禁令はこのような状勢を背景として出されたものであろう。即ち本百姓保護の原則に基いて、それとは逆に展開されて来た質地流に対する対応策であると見られる。然し状勢はこの禁止令の効力よりも、一段と進んでいたようである。享保八年(1723)になると

「丑年以来当卯八月迄 奉行所又は私領ニ而も 質地年賦ニ請戻し候儀 裁判申付 証文改置候分者 弥其通ニ可相心得候 然共相対質地流しニいたし候共 勝手次第之事」

という覚書が出された。六年丑の禁止令から今年の八月までの間に、年賦で請戻しをきめたものは、その通り実施しその以外のものは相対で、質地流しにしても自由だというのである。
 流地証文はこのような状勢の下で出されたものである。これにより本百姓態勢は崩れて所謂寄生地主層の出現となるのである。例をあげよう。

    相渡申流地証文之事
 一中畑三畝六歩   名所 西浦
    此質代金三両三分也  但し通用金也
右者御年貢ニ差詰り……書面之金子慥ニ受取借用申所実正也 此度為□金三分都合三両三分ニ而流地相渡申候 然上
者御年貢御役等貴殿方ニ而御勤メ永◇名高入御支配可ヒ成候……

天保十年(1839)田黒村の松五郎から鎌形村の文左衛門に入れたもので、この畑は、文左衛門の名請地とかわるのである。
 こうなってくると、質入は金融の手段であり、共同体の相依相助を目標とする金融であるという段階を超えて、富の追求や土地の集積が目的となってくる。共同体制にも若干の変質があらわれると見るべきであろう。これは遠い山形のことであるが享保六年(1721)の質地小作壱割五分の禁令の時、庄屋佐藤理兵衛の意見書に

「質地之作総壱割五分之利と被仰出候 此儀差閊可申 其訳金銭不通用之田舎故 御年貢を始 手閊候節は質地仕候……(禁止令に則ると) 左様ニ而ハ質地之金主相手無御座御納所を初 悉く差支可申……」

とあるという。前半では質入が農村の金融の主役であることを示し、ここまでは共同体制下の金融と異らないが、後半では、質取主が質地からの作徳(収入)を計算していることが現われていて、金融の性格がすっかり変っていることがわかる。
 相互扶助の性格は後退して資本の集積を原理とする金融がこれにとって代るのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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